ふたたび センス・オブ・ワンダー『生物と無生物のあいだ』 (07.12.15)


休日が終わろうとする憂うつな日曜の夜、ひとつだけ楽しみがあって、それはNHK BS夜11時からの『迷宮美術館』。馴染のはずだった絵画の意外な見方、その名画誕生の隠された秘密、そして馴染ではなかった画家による作品の、初めて知るそこに込められたメッセージが、なぞ解きのスタイルで紹介される。それまでの作品を見る目が、変わってしまうことがある。絵画は単なる静止画像ではなくて、それがいかに「生まれてきた」かのドラマを自ら語りだす。絵画が「生きて」見える瞬間だ。

この『迷宮美術館』を見終わって、そのままテレビをつけたままにしていると、始まるのが『週刊ブック・レビュー』。先週末の放送では、いま科学書としては異例のベストセラーを続けているという『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書 2007年)の著者、福岡伸一氏がインタビューされていた。著書の内容の解説ではなくて、よどみなく語られていたのは、どんな研究や学習にも、つねにドラマがある、ということだった。

著者は若いときにスキーに熱中した。けれど20代も半ばに始めたものだから、最初は簡単に上達したわけではなかった。あるときスキー教室に加わった。

スキーの先生はまず自分でお手本を見せて、さあ後について滑ってください、というわけです。でも、私はただちに同じふうには滑れない。先生は、こんな簡単なことがなんでできないのか、というような顔で私や生徒を見る。すでにスキーの滑れる先生は、自分がどのようにして滑れるようになったのか、その過程を忘れてしまっている。なぜ生徒がうまくできないのか理解できない先生は、どうすればできるようになるかを教えることが難しい。
と、おおよそこんな話が聞こえてきた。それまで見るともなくテレビをつけたままにしていた私は、テレビに向き直ったまま動けなくなっていた。そして翌日、会社の昼休みに書店へ足を運び、その本を買い求めた。

数学にしろ科学にしろ、おそよ学校の教科書で教わるのは、もはや記憶するだけの対象でしかない知識の集合体と言えなくもない。この著者の科学へのアプローチは、そうではない。それは私の子供のころの体験と重なる。

夏休みも終りに近づいたある日の夕刻、座敷の畳に寝ころんで縁側を眺めて、宿題の自由研究を何にしようかと考えていた私の目に、傾き始めた太陽の光を受けて、なにやら細い直線がきらめくのが見えた。クモの糸だ。小さなオニグモが軒下に巣をかけている。張られたクモの巣は見慣れていたが、その巣を張るところをちゃんと見たことがないことに気づいた。クモは放射状の糸を張り終えて、螺旋の横糸を紡ぎ始めたところだった。器用に足を操りながら、みごとに数学的とも言える整った多角形を織りなしていく。しかも、定規もないのに、横糸を等間隔にそろえているのは驚きだ。

このネットはもちろん獲物を捕獲するためのもの。それなら、クモの糸の粘着力はいかほどか、とそっと指でふれて見る。横糸はたしかにねばっこい。しかも弾力もあり、簡単に切れない。そうでなくちゃダメだろうな。好奇心はそこで終わるはずだったが、ふと思いついて、放射状に伸びたタテ糸も同じように、指で押してみた。はっとした。そして、もういちど隣のタテ糸にも触れてみた。胸が高鳴った。

――その放射状に伸びた糸は、指にくっつかなかった。

あんな小さなクモが、タテ糸とヨコ糸を区別して、ヨコ糸だけに粘着液をつけている。タテ糸には、枯れ葉やゴミはもちろんのこと、獲物までかかって欲しくないという「意識」のなせる技か。これは発見だ。きっとまだ誰も気づいていないだろう。そう決め込んで、私はクモの巣と糸を、自由研究のテーマにした。

新発見にいっとき有頂天に浸った私だが、冷静になってまさかとは思いながら、すぐに家の本棚にあった平凡社の百科事典をめくった。そしてまたも目を疑った。オニグモの項に「ヨコ糸は粘着力があるが、タテ糸はない」とはっきり書かれていたのだ。なんと、これはすでに誰かによって発見されていた既知の事実だったのだ。私は茫然と失望感を味わうとともに、観察して知りうる知識というものの空虚さも思い知ることとなった。

――観察して分かるものは、すでにだれかによって調べ尽くされている。

子供が体験した生物についての驚嘆、それに比べて、ただ観察して知識とするだけの人知にたいする諦観。これがきっと私の、記憶に残る最初のセンス・オブ・ワンダー。自由研究はすでに知られていることを繰り返すことはできない。たとえ自分で見つけたものではあっても、それは研究ではなくてただの引用だ。そこで、「観察」ではなくて、糸の強さをバネ計りで「測定」することをメインのテーマとした。そんなことがあったせいだろうか、それから私は目に見えて観察できる対象から、形のない対象へと関心を移していった。

ほんとはがっかりすることではなかった。どんなに初歩的なものであろうと、「新発見」ではなくてもそれはドラマだったのだ。スキーの初級教程がたとえ上級者にどれほど退屈のものであろうと、入門者にはあらたな発見の連続のプロセスだ。

『生物と無生物のあいだ』は「生命とはなにか」という著者自身の問いに、自らの研究の成果とそこに至るプロセスを織り込んだ、なぞ解きのドラマのような構成。しかも章のタイトルには読者を引きつける、ストーリーテラーの手腕がある ――「内部の内部は外部である」「時間という名のほどけない折り紙」。さらにエピローグは、それだけで独立した珠玉のエッセーになっている。

生物を精密な機械のように見る生命観はいぜん根強い。遺伝子操作は遺伝子「工学」とも呼ばれる。遺伝子をいじれば、生物体のパーツが変化する、とは原因と結果の機械的自然観の変形だ。ダーウィンの進化原因説も同類のもの。

この本のドラマの基調には以下の生命観が底流として流れている。

遺伝子ノックアウト技術によって、パーツを一種類、ピースをひとつ、完全に取り除いても、何らかの方法でその欠落が埋められ、バックアップが働き、全体がくみあがってみるとなんら機能不全がない。生命というあり方には、パーツが張り合わされて作られるプラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性が存在している。ここには何か別のダイナミズムが存在している。(7ページ)
研究者として、予想していた結果が出なかったことに著者は「最初は落胆した」。けれど、同時に「ここに生命の本質があるのではないか」と考えるようになった。
私たちは遺伝子をひとつ失ったマウスに何事も起らなかったことに落胆するのではなく、何事もおこらなかったことに驚愕すべきなのである。動的な平衡がもつ、やわらかな適応力となめらかな復元力の大きさにこそ驚嘆すべきなのだ。(271ページ)
ある意味で生命観は機械観とペアになっているのだろう。生命を機械と見るよりも、マシンを生き物のように見ることのほうが、ライダーには違和感がないかもしれない。停めてあるバイクの姿に認める絵画的美しさは、生物が持つ美しさに近いのではないか。それが愛車ならその「絵」の中に、いくたのドラマを見るのは、むしろ当然のことだ。


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