コーヒーブレーク「キリマンジャロの火」 (08.1.12 追記 08.1.14 / 08.1.19 / 09.3.29)


キリマンジャロの名は、かつてはまず小説と映画のタイトルとして記憶されたものです。学生時代からコーヒーにはまった私にとっては、それは次にコーヒー豆を指すこととなりました。酸味が強くて、香り豊かなキリマンジャロを以来いつも私は煎れています。

次いでキリマンジャロは、いつか登ってみたい憧れの山となりました。5000メートルを超える高山でありながら、ハイカーでも登れるほとんど唯一の山であることがひとつの理由です。ヒマラヤで5000メートル級の高みにまで達するのは簡単ではありませんし、8000メートル級の山並みの中では5000メートルでは見劣りがしそうです。その点キリマンジャロはアフリカ大陸の最高峰としてシンボリックです。

ただアフリカ最高峰としての魅力だけではなくて、もうひとつ引きつけるものがあります。それは20年くらい前だったでしょうか、『山と渓谷』が掲載したキリマンジャロ紀行の記事でした。山頂付近の氷河の写真が美しかったことに加えて、その頂に置かれているというタンザニア独立記念碑に刻まれた宣言文に感銘を受けたからでした。いつかキリマンジャロに登って、あの独立宣言文の刻まれた記念碑の前でそれを読み上げたい。たしか『山渓』にはそのレリーフの写真があったはずですが、記念碑全体がどのようなものだったのか、記憶が飛んでいます。ただ、そこに彫られた銘文は英語だったはずです。

折りも折り、つい先日NHKのBS HiVision でアフリカ縦断紀行が放送されました。キリマンジャロ登山までメニューにあったので、その頂上にあるはずの記念碑の映像を期待して、番組を見守っておりました。ところが、頂上地点にカメラが到達しても、ピークを示す簡単な表示板があるだけで、それらしき構造物がありません。番組のナレーションも全く触れていませんでした。

いったいあの貴重な記念碑はどこにあるんだろう? キリマンジャロに登る人はみな無関心なのか?

そこでインターネット上には写真が見つかるだろうと検索しましたが、案外と画像がありません。1997年の時点での頂上の様子を伝えるこちらのサイトには、頂上には旗のポールとニエレレ大統領のことばを刻んだしたプレート、そして記帳のためのノートがあった、とありますが、画像に映っているのかさえ分かりません。私はてっきり石を積み上げたケルンのような記念碑に埋め込まれたプレートを想像していたのですが、意外と小さい板がそのまま置かれているだけなのかも知れません。

さらに、その碑文はタンザニア独立宣言文の一節とばかり思い込んでいたのが、じつは初代大統領 Julius Nyerere ジュリウス・ニエレレが1959年に行った演説からの引用であることも知るところとなりました。それは、A Candle on Kilimanjaro として知られる一節でした。

We, the people of Tanganyika, would like to light a candle and put it on top of Mount Kilimanjaro which would shine beyond our borders giving hope where there was despair, love where there was hate and dignity where before there was only humiliation.  (http://www.sardc.net/editorial/sanf/2001/iss24/Nf1.html より)

「私たちタンガニーカ人民は、キリマンジャロの頂に灯火をかかげよう。その光が、はるか国境を越えて、絶望の支配した地に希望を、憎悪のはびこった地に友愛を、そしてかつて恥辱だけが残された地に尊厳を、呼び起こすように」
この演説から2年後の1961年、タンガニーカは独立を果たし、62年ニエレレが初代大統領に就任、次いで1963年に独立したザンジバル島と合併して1964年にタンザニア連合共和国となりました。

ですので、独立をめざして、希望、友愛、尊厳を謳い上げたこのニエレレのスピーチは、60年代に黒人市民権運動に殉じた Martin Luther King, Jr. キング牧師の有名な演説「I have a dream. . . 」に共通する「ことばの記念碑」ではあります。

ところで、日本語のブログなどもキリマンジャロ旅行案内が検索にヒットして、やはりこのレリーフが頂上に置かれている、と(画像なしで)紹介しているものが多数あります。気になったのは、そこで引用されている文言が、どれも判で押したように、皆同じ以下の訳文のコピーであることでした。

「我々は、彼方国境に輝くキリマンジャロ山頂に灯火を掲げよう。絶望あるところに希望を、憎悪あるところに尊厳を与えるために・・」
なにかのガイドブックからの引用と、そのまた孫引きでしょうか。もしも原典が上記の英文だとしたら、この訳では内容が欠けているし、輝くのは「キリマンジャロの山頂」ではなくて、そこに灯した「ロウソクの光」が原意です。ただ、日本語としてロウソクと訳すと簡単に吹き消されそうな印象が否めないので、私も「灯火をかかげる」と訳しています。

ともあれ、キリマンジャロは大陸の最高峰であるとともに、希望、友愛、尊厳のシンボルとして私を引きつけます。あっ、もちろんコーヒーの香りも、です。



追記(08.1.14):実際に火が灯った

世界のサイトを捜しても頂上にあったはずのレリーフの画像は見つかりませんでしたが、頂上での記念写真はたくさん見られました。中でも、こちらのサイトでは登頂者の投稿写真が1995年のものから連続で見ることができます。(http://www.mount-kilimanjaro.de/ の [Das Kibo-Gipfelbuch] → [Gipfelbuch] )

これを見ると、頂上の表示板さえ風雪で傷んで、補修再建していることがわかりますが、写真に偶然映っているのが、なにらやアルミ色した四角い箱と暗い色の台形の箱です。どちらも、撮られるたびに場所を変えていますが、四角の箱は蓋が開くようになっているみたいですので、これがサインブックを納めていたケースでしょうか。もうひとつの台形の箱は、一面に貼りつけられたステッカーでみすぼらしくなっていますが、レリーフの支持体のようにも見えます。だれにも見向きもされないこのくたびれた箱が、ひょっとして私の捜していた記念碑なのでしょうか。

レリーフの画像はいまのところ確認できていませんが、そのかわり、なんと実際にキリマンジャロに火がともった事実が見つかりました。

頂上に灯火 So on the night of Decemer 9, 1961, the very day of Tanzania's independence, a group of climbers from Tanzania went to the top of Kilimanjaro planted a torch, putting the flag of Tanzania on the top. They re-named their top "Uhuru Peak" which means in Swahili ''Freedom Peak".  (http://www.ginethsoto.com/kilimanjaro_eng.html)

「そこで、1961年12月9日の夜、タンザニア独立のその日に、タンザニアの登山家のチームがキリマンジャロに登り、頂上に灯火を打ち立て、その上に翻るタンザニア国旗をかかげた。彼らはその頂を「ウフル・ピーク」と新たに呼ぶこととした。それは、スワヒリ語で『自由の頂』を意味した」
写真は、こちらのサイト(http://www.ntz.info/gen/b00766.html)にあったもので、おそらくはその時の記録写真と思われます。まさに、記念碑的映像です。

ただし、上記の記事で「タンザニア」というのは、正確には「タンガニーカ」です。写真の国旗も、白黒ですが、そのデザインはタンガニーカ国旗に見えます。

ところで、ニエレレの「A candle on Kilimanjaro」の一節はそれだけで独立して流布していますが、さらに以下のくだりが続いている、とありました。「ロウソク」のシンボリックな意味を敷延しています。

We cannot, unlike other countries, send rockets to the moon. But we can send rockets of love and hope to all our fellow [humans] wherever they may be. (http://www.ephrem.org/~ephrem/archives/1999/m15720.html)

「私たちは、他の国がするように月に向けてロケットを打ち上げることは、できない。けれど私たちは、地上のどこであろうと全ての同胞に向けて、友愛と希望のロケットを飛ばすことなら、できるのだ」



追記 その2(08.1.19):ウフル・ピークの奇蹟

ほとんどあきらめかけていた山頂の独立記念碑の画像ですが、世界中で掲載しているサイトがひとつだけ見つかりました。日本人の方のHPです。(『キリマンジャロ写真集』http://www2u.biglobe.ne.jp/~y-oya/kiliman/kili-photo.htm)ちょうど私がキリマンジャロ登山を考え始めたころの1988年の登頂記録です。やはりあのくたびれた箱が記念碑でした。けれど20年前の時点では、その碑文もはっきりと読めるものでした。ニエレレのことばは、先に引用した英文のテキストそのままです。意外だったのは、このニエレレの演説文の上に、頂上にかかげた灯火のことが標されていることでした。

頂上のレリーフ
           THE TANGANYIKA FLAG
         AND THE TORCH OF UNITY
     WERE FIRST RAISED HERE ON THE
           9TH. DECEMBER 1961
      BY LIEUTENANT A.G. NYIRENDA
           TANGANYIKA RIFLES

"WE, THE PEOPLE OF TANGANYIKA, WOULD LIKE
 TO LIGHT A CANDLE AND PUT IT ON TOP OF
 MOUNT KILIMANJARO WHICH WOULD SHINE
 BEYOND OUR BORDERS GIVING HOPE WHERE
 THERE WAS DESPAIR, LOVE WHERE THERE WAS
 HATE, AND DIGNITY WHERE BEFORE THERE
 WAS ONLY HUMILIATION."
                        JULIUS K. NYERERE

先に紹介した、タンガニーカ独立の日に山頂にかかげた灯火とタンガニーカ国旗の記録写真を知らなかったら、この碑文の上の部分の意味は単に比喩的にとっていたかも知れません。前回「登山家のチーム」と訳しましたが、この碑文によると写真に映っているのは軍人さんらしく、 ニイレンダ中尉という名が見えます。ただRIFLESとはなんなのか、分かりませんが、たぶん「ライフル銃部隊」ではないかと思います。

HPの作者大矢さんは1988年に初めてキリマンジャロに登り、そしてこの2008年1月に20年ぶりに再度登頂されています。それは気象天気予報士として「地球温暖化の影響で頂上の氷河がどうなったのか、この目で確認したい」という目的もあったそうです。HPでは20年前の写真と比較して、氷河が縮小している事実も指摘されています。

そうして今年の1月2日、ウフル・ピークに再び立って、「頂上にあったタンザニアの国旗がなくなっていて、標識に代っていたが、タンザニア初代大統領ニェレレ氏の言葉を刻んだレリーフは、20年の歳月に耐えてそこに残っていた」と記されています。(http://www2u.biglobe.ne.jp/~y-oya/kiliman/080102.htm)

その記念碑について、直接大矢さんにお話をうかがったところ、「標識の近くにガラクタのように置かれていた箱の覆いを取ると、例のレリーフが現れた」そうです。いったい一年に何万人の登山者と観光客がこのウフル・ピークにやってくるものか。その中にこのガラクタ箱が何なのか、知る人はほとんどいないようです。あるときはひっくり返り、あるときは椅子がわりその上に坐られたり、いまやプレートも曲がり反り返っています。

でも驚嘆すべきは、この箱がぼろぼろになっても、風にころがされても、いまだ頂上にあること。登頂者の記念写真の片隅に、場所を変えながら、気づかれもしないで映っていること。以下は8年にわたってこの箱がたどった変遷。なにか、『2001年宇宙の旅』のモノリスのように、やってくる人たちを時を超えて見つめているかのようです。この歴史的な記念碑にこうもステッカーをぺたぺた貼る観光客にはじめ憤りを覚えたものですが、それでもこうして長い時を超えてなお残っていることは、奇蹟と呼ぶべきものかも知れません。

1999年3月 2003年12月 2004年2月 2005年10月 2007年1月
(左から、1999年3月、2003年12月、2004年2月、2005年10月、2007年1月 の独立記念碑)



追記 その3(09.3.29):希望の灯をかかげた英雄の死

「追記その2」をアップしたのは昨年1月19日でしたが、もちろんその前にウフルピークに灯火を掲げたNyirenda中尉について検索を試していました。けれど、なにもヒットせず、この人物については知るところがありませんでした。

あれから1年、あらためて再度検索すると、こんどはたくさんの英文記事がヒットするようになりました。この英雄の死を報ずるニュースです。Retired brigadier general (退役した准将)のAlexander Gwebe Nyirenda は喉頭ガンを10ヶ月患った末に昨年12月20日に亡くなった、といいます。72歳でした。ということは、ウフルピークのミッションを成し遂げたのは弱冠25歳ほどのとき、ということになります。 ("Alex Nyirenda dies in Dar" 2008.12.21)  

インターネットにニュースが出始めるのは昨年1月23日。前回の追記をアップした直後でした。そこには、退役したニイレンダ氏の重病が報じられています。 ("Uhuru torch hero is sick" 2008.1.23)

そして、1月30日付けで、Nyirenda氏とのインタビュー記事があります。その他のニュースが伝える略歴と総合すると、彼の経歴は、

1936年2月2日生まれ。高校を卒業後、1957年よりイギリスのSandhurst Military Academyにて4年の訓練コースを修了。ウルフピークに登頂したのが中尉として、その後おそらくはその功績のために中佐に昇進、しかし、1964年の軍内部の混乱のために退役。国内、国外にて軍とは無縁のビジネスに携わる。1978年、明細は不明だがタンザニア・ウガンダ戦争に参画、そのことで、Ali Hassan Mwinyi大統領より准将の名誉称号を与えられる。
インタビューの中でとくに興味を引くのは、なぜウフルピークのミッションが与えられたかの質問にたいする回答。 ("Uhuru Torch hero who remains committed" 2008.1.30)
Nyirenda: It was circumstancial. Mwalimu Julius Kambarage Nyerere was looking for 
a Tanzanian army officer to carry out that assignment and I happened to be the first 
commissioned Tanzanian (Tanganyika citizen by then).

答:とくべつに私でなければならなかったのではなくて、ニエレレ大統領はこのミッションのために
 陸軍の将校を求めていました。たまたま私がタンガニーカ人最初の士官であっただけのことです。

今でこそ、簡単に登れるキリマンジャロですが、当時は装備と天候で困難があったものと想像します。けれど、この歴史的偉業をなしとげた人物がネット上でヒットしなかったことが疑問でした。その質問がインタビューにありました。
Q: After retirement, have you been associated with any national ceremonies such as 
attending Independence Day celebrations by invitation ?

問:退役したのち、独立記念日のような国家的イベントに招かれるようなことはありましたか?

A: No. I have never been invited to any Uhuru Day celebrations after my retirement.

答:いいえ、退役したあとは、ウフル記念日の祝賀に呼ばれることは一切ありませんでした。

uhuru coin 1964年の軍隊内部の内紛がいかなるものだったのか分かりませんが、ウフルピークの英雄はずっと忘れられていたようです。

英雄は死しても、ウフルピークにかかげた希望、友愛、尊厳の灯火は、Uhuru Torchとしてタンザニアのシリング硬貨に今でも刻まれています。



[楽しいバイクライフのために] へ戻る