そのうちエッセーのネタが尽きたら、オートバイ小説についてエッセーでも書こうかな、と思っていたら、すでに先を越されておりました。斎藤美奈子「とばす! オートバイ文学」(『文学的商品学』文春文庫 2008年)。
二輪免許を持っていない(に違いない)彼女がオートバイとライダーを描いた小説を論じることができるのは、もちろんバイク雑誌などもかたっぱしから目を通していた(に違いない)こともそのベースにあるでしょう。でもそれよりも、文芸評論の名のもとに、出版物から見る同時代の社会評論という文学形式をひとりで確立している彼女なら、オートバイをもその対象に取り込むことも、思えば当然のなりゆきとも言えます。
たとえば、オートバイ小説と言ったらだれもが思い浮かべる、あの書きだし
片岡義男の『彼のオートバイ、彼女の島』。斎藤美奈子の手にかかると、そこに「俳人の伝統」が重なります。カワサキのオートバイにまたがって、ぼくは、にぎりめしを食べていた。あるときは都市を駆け、あるときは四季折々の季節感を織り込みながら国内を旅するオート バイ小説は、ディスカバージャパン・ノベルでもある。これが花鳥風月を重んじる「吟行」 でなくてなんでしょう。カワサキの広告に使うべきだと申し上げた『彼のオートバイ、彼女 の島』の冒頭部分をもう一度読み返してみてください。非常に俳句的、ではありませんか? 夏草や、バイクをとめて、にぎりめし、とかね。いつもの斎藤節ですが、辛口度がそれほどでもないのは、批評の対象が小ぶりなせいでしょう。
そう、私がオートバイ小説についてのエッセーをと思ったのは、それが小ぶり、つまりバイク乗りくらいにしか知られていない、読者層の狭いものばかりだなあ、と思えたからでした。べつに、それは作者の問題とか、小説の出来を言っているわけではありません。小説の中でバイクにおおきな役割を果たさせようとすることに自体に、なにか限界でもあるような気がしてなりません。バイクマニアにしか読まれない小説は、バイク雑誌に連載するにとどめたほうがいいのでは。
以前Dark Angelでバイク論を展開したのも、じつは、オートバイ小説の中のどんなバイクよりも、あのヒロインの跨がるNinjaのほうがずっと役にはまっているように見えたからでした。どこが違うんだろう? ドラマの中では、女性がバイクに乗ることをとくべつ変わったこととしてでなく、さりげなく使っています。それでいて、このNinjaはたいそう活躍します。そう、バイクに対する社会通念とライダーのバイク嗜好が日本とどこか違うのです。
斎藤美奈子のエッセーは、じつはこんな書きだしで始まっています。
ここに、文芸評論の名を借りた同時代社会評論家としての斎藤美奈子の、感覚の鋭さがよくあらわれています。二輪ライダーでもないのにあたかもバイクへ思いを共有していると感じさせる、その対象への迫り方がです。えっ、私のエッセーとどこかアプローチが似ている、って? そうでしょう、そうでしょう。「バイクライフ」とは、つまり「生き方のスタイル」ですもの。ご存じのように、日本は世界に冠たるオートバイ生産国です。カワサキ、ホンダ、ヤマハ。 オートバイのF1に当たる世界GPでも、日本のメーカーは他の追随を許しません。 しかし反面、日本ではオートバイには、長い間、反社会的な乗り物のイメージもつきまとっ てきました。(中略)走っているのも駐めてあるのも、ミニバイクと大型スクーターばかり。 ナナハンなんかに乗っているのは、いまやみんなオジサンです。 しかしながら、オートバイは、長い間、若者たちの憧れの乗り物でした。それは単なる移動 の手段ではなく、大げさにいうと「生き方のスタイル」みたいなところがあった。 はたして文学は、そのへんをどのように描いてきたのでしょう。さて、すでに先を越されたし、アプローチも似ているからには、いまさら「オートバイ小説論」でもありません。それじゃあ、オートバイ小説そのものに挑戦だ。愛車を擬人化するのも、女をバイクで自立させる手口も、古い。じゃあ、古いけど、ディック・フランシスをパクったミステリー仕立てはどうだ。やっぱり競走馬小説もオートバイ小説も、書き出しが命だな。
バイクをとめてザックを開けたら、入れたはずのにぎりめしがなかった。かわりに 死神をつれてきたとは思わなかった。