わたしはそうは思わない (2011.1.30)


その昔、学生時代のころ、ロシア語のレッスン中、和訳の問題があたった。原文がどうだったか今では覚えていないが、直訳すると「わたしは違うふうに考える」とでもなるようなセンテンスだったと思う。それをとっさに、「わたしはそうは思わない」と答えたら、想定していた答えではなかったのか、講師の先生はちょっと間を置いてから、「はい、そうですね」と次の問題に進んだ。

不自然さや作為的なものに敏感なのは生まれつきのようなもので、どうしようもない。不自然さの最たるものは、漢文の読み下し文と、それをまねたような作文。日本が漢学から英学へ宗旨替えしても、読み下しの手法はなんら変わっていない。

日本の総理大臣として菅直人がスイスのダボス町で開催の「世界経済フォーラム」で特別講演をして、日本は「第3の開国」を目指している、とスピーチした。第1と第2は、明治維新と敗戦占領のことだ。だが、いままた「開国」なんて言うか?

開国って、閉じていた門が外圧によって開けられることでしょ。慶喜さんの亡霊を見たような気がした。

そのスピーチを伝えるTVニュースではTPP(環太平洋パートナーシップ)への参加交渉について「6月をモクトに結論を出す」って発言していた。「えっ、モクト? モクトってなんだ?」と画面をみたらテロップが出ていて、「目途」ってあった。おいおい、自然な日本語なら「めど」か「目処」でしょうが。役人の作文を読み上げただけなのかな。

ひょっとして、パソコンで原稿を作成した際に、「めど」でいいものを、わざわざ漢字変換したら「目途」になったか。まさか一般常識から乖離した官僚用語にモクトがあるとは思えない。

こんなことはささいなこと、どうでもいいこと、と思う人だっているだろう。でもわたしはそうは思わない。

開国なんて言葉をえらぶのは、自分が対外的外交的に受け身になっているという気分の現れ。モクトは、読み上げたのではなくて、読み下したもののよう。読み下し文って、いつも嘘っぽい。

嘘っぽいところのないエッセーで知られる佐野洋子が昨年11月に亡くなって、それまで品切れだった文庫本も増刷されたり、「追悼」という帯を着せられたりしている。そんな一冊に『私はそうは思わない』(ちくま文庫)があった。その中に、オートバイに乗っていた頃の話がちょっとばかり出てくる。

たとえば、地図を読むのが苦手というくだりで、

 なのに私は東京中を車で走り回り、オートバイでツーリングに出かけてゆく。
 ツーリングではラリーをやった。グループの先頭の私に、仲間がガソリンタン
クの上に地図をべったりはりつけてくれ、出発した。(中略)いくらも走らない
うちに、びりを走るようにいわれた。左折ではなくて右折しなければならなかっ
たのだ。
(『白地図はバッハのようだ』117ページ)
へえーっ、彼女、バイクに乗っていたんだ、と新発見をしたみたいな気分になる。それにしてはあまりバイクについて書き散らしていないようだけど、同じように追悼増刷だったみたいな『がんばりません』(新潮文庫)にはオートバイをタイトルにしたエッセーがある。
 男の孤独って、あんなものなのか。ずい分気持ちいいもんじゃん。
 悲壮感とやせ我慢をして、生理的快感に体をひたすものなのか。
 それに何たってかっこつけに終始せにゃならぬことがオートバイ乗りの条件
みたいなものである。
 50ccはナナハンに卑屈になるランクづけってものだってある。
 男の人生はオートバイをぶっとばすことと同じなのか。
(『オートバイは男の乗り物である』284ページ)
一時期オートバイに乗って「はしゃいでみた」が、「結局オートバイは男の乗り物であると私は見切りをつけた」という文脈での一節。原付きがナナハンに卑屈になる、というくだりに笑ってうなずく。

代表作の童話『100万回生きたねこ』(1977年)のカバーの折り返しには、バイクに跨がって笑顔を見せているスナップ写真が今でも著者紹介に使われている。



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