バイクに乗らない人、バイクのことを知らない人とはバイクの話が通じないのが普通だ。バイクって楽しそうですね、どんな気持ちになれるかしら、とは誰も聞かないだろう。だって、そう訊ねる人なら、もうライダーになっていることだろう。たいていの人はこうコメントするのだ。「バイクだって! まあ、危ない。」
冒険ということばが、アドベンチャーではなくて無謀という意味合いを強めてきたのは、いつからだろう。堀江謙一という青年が、小さなヨットで太平洋をひとりで渡りきったニュースを子供の頃聞いた。快挙だった。日本は海洋国だったんだ、と改めて知った。ずっと後になって、その若きヨットマンはアメリカでは英雄として歓迎されて、日本に帰ったら犯罪者扱いされた、と聞いた。密出国だった、というのだ。実際は、外務省が出国許可を出さなかったのだ。「危ないから止しなさい。」なるほど、出国許可を出して、遭難でもされたら責任はどうする。自身が冒険を恐れるのはいっこうに構わないが、他人が冒険に挑むことまで忌み嫌う気分が、たしかにこの国のどこかに巣くっている。
バイクに乗ることは、誰にとっても、ひとつの冒険だと思う。とくに、乗り始めた頃は。緊張もするだろうし、何度かは、危ない目に遭った経験は誰もがもっているはずだ。危険と背中合わせであることは否定できない。だが、危険であったとしても、何がどう危険かを知りさえすればいい。事故の事例から学ぶこともひとつ、車からバイクはどう見られているかドライバーの視線から見直すこともひとつ。危険は無知の裏返しだ。知性はいつも冒険心に富んでいる。
14世紀日本の思索家で歌人の兼好法師は、そのエッセーのなかでこんな話を紹介している。
庭師の頭が、その部下に木に登らせ、枝を落とさせている。ところが、いかにも危なそうな高いところで作業しているときは何も言わず見ているだけだ。終わって降りてくる段になって、初めて、「気を抜くな、気をつけて降りろ」と声をかける。
「おまえさん、こんな、飛び降りることもできそうな低いところに来てから気をつけろとは、どういうことかね」
と訊ねると、
「よく聞いてくれました。実は、目のくらむような高いところでは、人は自分から注意を払うものなので心配はしておりません。事故はかえって、何でもないところで緊張がとれたとき起こるものなんですよ」
(徒然草 109段より)
危ないから安全だ、安心だから危険だ、という逆説のような話ではある。"危ないから" に順接で繋がる主節は、たしかに否定文だけではあるまい。