バイクが文化になる日:ジャーナリズムの貧困 (99.1.24)


だれもがライダーになると、それまで考えもしなかった、バイクに対する偏見と不公平に気づくことだろう。私の頃は、高速道路の通行料金が車と同じだった。これは勇気あるライダーのグループによる運動のおかげで、少しだけ安くなった。少しだけ。相変わらず、高速道路の二人乗りは禁止されたままだ。一般道と高速道路と、いったい二人乗りにどちらがより危険か、わかっているのだろうがこれが行政というものの実態だ。

制限速度50kmの都心道路を70kmで走る車を警察は「交通の流れに乗っている」と称して黙認しておきながら、50kmで車の流れに乗っている原付きを速度違反で捕まえている。30kmではかえって危険であろうに。

私は駅までの通勤に原付きを使っている。私の住む多摩市は、駅のそばに公営の駐輪場を用意しているのが、それでも収容数が足りない。インフラを準備することなく、路上駐輪のバイクや自転車を悪玉扱いするだけでは、何も変わらないだろう。

コンピューター雑誌がメーカーやソフト会社のチョウチン記事で埋まっているのは周知で、その点は車やバイクの雑誌とて同じだ。大体が新製品の購入ガイドのような内容だし、多くの読者もまたそれを期待しているのも事実かも知れない。新聞や雑誌が、大手広告主の批判記事を載せることがタブーであるのは、なにも日本に限ったことではないかも知れないが、その度合いがどうも海外と日本とでは違うのではないか、とつくづく思う。

今にして思えば、インターネットのおかげで、私のコンピューター観もずいぶん変わった。それまでは、雑誌や書籍でインターネットを理解していたのが、今やそれが逆転して、インターネットの側から雑誌や新聞・テレビを判断することが多くなってきた。こと、コンピューターの業界の動きに関してはそうだ。つまり、インターネット上にジャーナリズムが成立している。なかには、個人の運営するサイトで大きな役割を果たしているものもある。とりわけ、パソコン業界の最大のタブー、マイクロソフト、から出版妨害を受けてそれに敢然と立ち向かった中村正三郎氏の個人サイトは、そのいい例だ。

残念ながら、車とバイクに関しては、その雑誌の数とは裏腹に、まだジャーナリズムと呼べるような情報と知識の提供の場は成立していないように思う。これから車社会のあり方が変わろうとしている時に、車の未来を論じることが少ないのは、きっと、車の現在がわからないからではないか。車検とは何か、車検制度はなぜあるのか、バイクの高速での最高速度を80kmとしているのはいったい誰なのか。それより、そもそも高速道路がなぜ有料なのか。渋滞は自動料金システムで解消するのか、その設備費用はだれが負担するのか。

三本和彦著「クルマから見る日本社会」(岩波新書 1997)はそんな貧困な自動車ジャーナリズムの中では待望の車社会論だ。私は以前、著者がレギュラー出演しているテレビ番組の「新車情報」をよく見ていたものだが(今は受信できない)、その中では表向き新車の紹介の形をとって、クルマのあるべき姿を裏のテーマにしていたのを思い出す。著者は「自動車を人間のために本当に役立つ文化にまで押し上げること」を願っているようだ。「自動車」を「モーターサイクル」と読み替えても通用する内容になっている。





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