1983年だったと思うが、まだ日本人観光客もまばらな西オーストラリアのパースに、出張で滞在していた。それが、幸運にもアメリカズカップの戦勝パレードの開催日と重なり、数少ない日本人として見物できたのだ。
「America's Cup?」初めて聞くヨットレースに私がキョトンとしていると、現地の会社の社員は、日本人はこの世界的レースを知らんのか、と呆れながらも、熱っぽく語って解説してくれた。アメリカズカップはヨットの最高峰レース。それまで130年間アメリカから動くことのなかったカップが、初めてオーストラリアの、それも小さな西海岸の都市のヨットクラブに持ち去られたのだ。決勝戦を、時差の関係で真夜中に実況放送を聴いていたオーストラリアの国民は、勝利の瞬間、至る所で車のクラクションを鳴らして、国を挙げてのの大騒ぎだったという。そのカップの到着を迎える祝賀イベントだったのだ。それは同時に、オーストラリアの中にあった東海岸優位の風潮にたいして、西海岸で開催すること自体にも意味があった。
しかし、私はその時、恥ずかしい思いがした。日本の外で起こっていることを知らないでいたから、という理由ではない。知らないことはいくらでもあるし、新たに知ることは意味のあることだ。だが、世界の海洋国がみな、自国の威信をかけて戦っているレースに、「海洋国」日本が参加していないどころか、日本人のほとんどが知らないでいたことに、カルチャーショックを覚えたのだ。日本はほんとに海洋国なのか?
日本を開国させて近代化への扉を開いた事件として、よく黒船来航が語られる。鎖国で安泰だった日本に、無理やりこじ開けるように開国を迫ったアメリカは、また「外圧」のルーツとして引きあいに出される。だが、鎖国が安泰をもたらしていたかどうか、疑わしい。それは支配者の側からの見方であって、江戸時代以前は、日本は活発に海をわが物のように行き来していた。鎖国は昔話ではない。日本人が勝手に国外に出ることを禁じた歴史は、ほんの30年くらい前まで、続いていたのだ。
さて、オーストラリアの防衛戦は、1987年、パースからほど近い港町のフレマントルで開催され、カップ奪還に燃えるアメリカがあっさりと勝利を収めて、再びカップを持ち帰った。そうしてこのあたりを契機に、レースが違った色合いを帯びてきた。1983年のオーストラリア艇の勝因に、その独自なキールのデザインがあったとされている。限界性能に迫るヨットのデザインに加えて、水の抵抗を減らすための新素材開発、コンピューター利用など、にわかにハイテク競争の比重を高めて現在にいたっている。
今、カップは再びアメリカを離れ、保持しているのは、海洋大国のニュージーランド。2000年の開催国だが、予選ラウンドは今年から始まる。この国では、ラグビー同様、ヨットも国民的なレジャー・スポーツである。日本ではヨットはまだまだ金持ちの道楽の域を出ない。だが、オーストラリアでのアメリカズカップ開催を契機に、日本でもそれまでヨット愛好家しか知らなかったこのレースがにわかに脚光を浴びるようになり、海洋国としてのメンツも手伝ってか、1992年から参戦を始めた。これなど、間接的な外圧とでも言えようか。
そしていま、またうれしい外圧がアメリカからかかっている。高速道路でのオートバイの二人乗り禁止を撤廃せよ、と日本政府に迫ってくれているのだ。昨日の筑紫哲也のニュース23によると、日本はハーレーダビッドソンにとって大きな市場であるが、二人乗りでのツーリングが一般的な諸外国に比べて、日本でのこの規制は大型二輪車に対する差別であるとして、規制解除を要求しているという。ついでに、ハーレー側の思惑として、前傾姿勢を強いるヨーロッパと日本のモデルに比べて、いわゆるアメリカンではゆったりと二人乗りを楽しめる優位点が、今回の要求の根底にある、との23側の詮索的コメントも付けていた。警察庁も見直す検討をしているとのこと。
ハーレー側の下心はどうあれ、じつに歓迎すべき外圧ではある。日本人がいくら言っても聞かない政府なら、どんどん外国から攻めて欲しいものだ。なにしろ、国産の政党が主権者に国旗国歌を強制してくる国だ。外国産のハーレーが救世主に見えてくる。いままで、おじさんバイクのイメージがつきまとっていたハーレーだが、高速道路での二人乗り開放の「黒船」として、若々しいチャレンジ精神の雰囲気を漂わせることになるかも知れない。