危険予知能力について (99.8.17)


お盆で帰省するために関越道を車で走っていたとき、渋川付近で突然の豪雨に遭い、視界もきかないのでヘッドライトを点灯、一時40KMくらいに速度を落とし、前の車のテールライトを頼りにトロトロ走った。走行中にあんなに降られたのは初めてだった。高速が川になるかと思った。それでいて新潟側ではぱらつく程度の雨だ。ずいぶん局所的な降雨だったようだ。その雨を降らせた熱帯低気圧は依然関東に居坐った。

翌々日の14日、丹沢周辺のあちこちの川で、キャンプをしていた人が、川の増水のために、中洲に、または対岸に取り残されてしまった、とニュースで報じられた。あるグループは胴まで水に浸かりながら救援を待つ間に、とうとう流されて行方不明という、痛ましい結末にまで至った。

そもそも、川の中洲にテントを張る、というのも論外だが、多分キャンパー達には何度も経験済みのことで、通勤の電車に乗るのと同じくらい安心なことだったのだろう。これまで、危険はなかったのだ。上流地域で降雨量が増し、増水が予想されたので、消防がキャンパーに退去を勧告したが、冷ややかに無視された。「勧告」なんて、いつも大事をとっての措置で、強制力があるわけでもなし、黙って従って何事もなかったら、バカを見るだけだ・・・そういう心理が働いても不思議ではない。

自然の猛威が牙を剥いて、楽しいはずのキャンプが一転、惨事と化したかのような印象を与えるが、単に結果論だけで済ませてはならない問題が見えてくる。安全についての感覚が鈍っていないか。3000M級のアルプスを登っていても、時々子供を大勢引き連れた一行を目にする。中には、子供の数に比べて引率する大人が少ないこともある。子供も意外と軽装だ。そうして、その一行がひと休みして坐っている場所は、いつ落石があっても不思議ではない広いガレ場の斜面だったりする。幸い、結果として何事もなかったからリーダーの過失は問題にならない。だが、万が一にも、そこに落石が起こってケガ人でもでたら、リーダーは責任を免れない。まさかの事故、では済まされない。予測しなかったこと自体が問われるのだ。

安全とは、何事もなかった、というパッシブな結果のことではなく、どう危険を予想し回避したか、というアクティブな対応を指す。天候に恵まれさえすれば、日本の山岳は、子供でも楽に登れる優しい山ばかりだ。だが、ひとたび天候が変われば、山の様相は一変する。そういう事態を想定した装備を子供にもさせないとならない。子供は、大人と違って、天変地異に適応する。何事もなく快晴の山頂で、写真で見たのと同じ眺望を確かめただけの記憶もいいが、急変した天候の下で、大人とどう切り抜けたかも、やはりアウトドアスポーツの貴重な体験にならないだろうか。

バイクに乗り続けるためには、同じように、事故と盗難という楽しくないことに向き合うことになる。結果だけ見れば、事故に無縁な無茶ライダーもいるだろう。注意していても事故に巻き込まれた慎重なライダーもいるに違いない。私など、思い出すと冷や汗の出る体験が四輪でもバイクでもある。その「危うく事故」の経験は、逆にいい教訓になってもいる。そう思うと、事故と無事故は、紙一重と言えなくもないが、その差を見切ることが、危険の予知能力ではないか。起こった事故について多くを語ることは可能だ。だが、起こらなかった事故について、あなたは何を語れるだろう。





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