あとなぜとツーリングの関係 (99.9.7)


小学校の頃、習字と書道の時間に、お手本の上に紙を重ねて、上からその筆跡をたどったことがある。それを「あとなぜ」と呼んでいた。跡をなぞる、ということから来ているのだろうが、「あとなぞり」ではなく、なぜか「あとなぜ」だ。

てっきり、「標準」日本語かと思っていたが、会社で話題にしたら誰も知らない単語だと分かった。広辞苑の見出し語にも見当たらない。どうやら、柏崎地域限定語らしい。じゃあ、そういう行為をどう呼んでいたの?と他県出身者に聞いても、その概念を表す単語がないという。だいたいが、お手本は横において、それを見ながらまねたようだ。こちらは、いわば「見まね」。

あとなぜも、見まねも、私にはたいして効果がなく、人様に自慢できる字は、とうとう書けないでいる。だから、タイプライターもマッキントッシュも、仕事で使う云々の議論の前に、まず、人間能力の拡張として、いち早く飛びついたものだ。

すっかり忘れていたのに、インターネットに象徴されるデジタル革命の中で、双方向メディアが台頭してくると、この懐かしい「あとなぜ」を思い起こすことになった。これまでメディアのほとんどは、ラジオ、テレビ、レコード、CD、出版、新聞、どれをとっても、送り手と受け手の一方通行の関係だった。その結果、知らないうちに、他人の話し方、書き方、感じ方をコピーしていたのではないか、と思い始めた。私たちは、自分で考えているつもりの時、ほんとに自分で考えているのだろうか。感じているのは、この自分なのだろうか。じつは、誰か他の人の考えや情感をあとなぜしていたのではないか。

暑い夏が終わったが、今年もお盆の期間に、画一的なニュースが作られた。言うまでもなく、帰省ラッシュの報道だ。高速の長い渋滞、長蛇の列のプラットフォーム、列車から降りてくる乗客の疲れた表情とインタビュー。何年か前の録画をそのまま使っても、視聴者は気づかないかも知れない。実際の混雑は、実はほんの一時のものだ。それに比べたら、東京の毎日の通勤ラッシュと渋滞のほうが、どれほど深刻なことだろう。

お盆 > 帰省 > 渋滞と満席 > 疲労のための休暇、という強いられる連想の筋書きは、分かってしまうとばかばかしい。優しい海、まぶしい稲穂、お盆と正月くらいにしか会えない旧友、それに待ってくれている親たち。帰省する人それぞれの心のおみやげは、ニュースに表れようもない。ひょっとして、ディケンズが日本に生まれていたら、お盆の「クリスマス・キャロル」を書いていなかったろうか。

車やバイクのおかげで、帰省も楽しいものになった。私はそもそも、旅行というものがあまり好きでなかった。じっと汽車やバスに乗っているのも退屈だし、レールの上を走る列車は、未来が定まっているかのようなニュートン的世界像を連想させることもあった。観光地に行っても、観光ガイドで読んだ知識を確かめにいくようなものだった。そこがテレビで紹介されようものなら、リポーターのタレントさんが演じた体験を追体験しようと考える人もいるかも知れない。

バイクで遠出すると、移動の自由とは何なのか、考えをあらためることになった。これから、たとえばテレビ電話が実用になれば、仕事で出張しなくても済んでしまう用件が多くなるだろう。またバーチャル体験で、エベレストの頂上に立って360度見渡すゲームも出てくるかも知れない。それでも、人はバイクに跨がって、好んで遠出をするだろう。誰かのあとなぜではない、自分だけのルートとストーリーを残すことに、ツーリングの原点があるのだから。





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