Fallin'
6
千歳が学校から帰宅すると、リビングからバタバタと足音が近付いてくる。
「ちーちゃん、お帰りっ」
「ただいま」
尻尾を振らんばかりの勢いで出迎えに来た、甥っ子の舞である。
こういう所は昔から変わらない。足音が「とてとて」から「バタバタ」に変わったくらいだろうか…。子供だった千歳でも抱っこ出来るぐらいだった舞も、今では千歳と並ぶ程だ。
(そろそろ追い越されそうかな…)
と、ぼんやり考えながらリビングに向けて歩いていると、子犬のような上目使いで舞が首を傾げてきた。
「ちーちゃん、今日疲れてる…?」
「んーん、普通だけど。なぁに?」
「勉強教えて!」
そういえば、そろそろ中間試験が近い事を思い出す。
「へえ、随分気合が入ってるんだね、まーくん」
「もちろんっ」
(ちーちゃんとの将来が、かかってるからな!)
「う〜ん、ちょっと惜しいかな…。ここは――」
〜♪〜♪……
夕食後、リビングで勉強を見てもらっていると突然、千歳の携帯電話から着信メロディが鳴り響いた。セバスチャン・バッハの『Agnus Dei(アニュス
デイ)』…后(きさき)からの電話だった。
ピクリと反応した千歳の様子に、敏感に電話の相手を感じ取った舞は、「ハァーッ」と伸びをしながら立ち上がり、
「疲れたー、風呂入ってくるわ。後は自分でやるよ」
と言い残して、返事を待たずにリビングを出た。
舞が千歳のマンションに居候するようになって数週間…。今まで后からの呼び出しと思われるものはなかったが……。
(なんか、とうとう来たって感じ……。キツ…)
脱いだ服を、脱衣場の洗濯機に腹立ち紛れに投げ入れ、長い溜め息をつく。
分かってはいた事だが、実際にこの時が来てしまうと、悲しい程のやるせなさに胸が締め付けられて痛いくらいだった。
わかってる…。舞がどんなに反対したところで、千歳は后が好きなのだ。たとえ后の心が自分に向いていなくても、それでも良いと思える程……。
カチャリと玄関が閉まり、千歳が出て行く様子を、舞は湯船の中で聞いていた。
(今は……我慢)
何も考えたくなくて、ぶくぶくと湯船に顔を沈めた。
「…お帰り、ちーちゃん」
后の元から帰宅した千歳は、本日2度目の「お帰り」を言った舞の姿に、驚いた表情を見せた。
「まーくん……。まだ、起きてたの…?」
時計の針は、もうすぐ午前2時を指そうとしている。舞は、あの後も試験勉強をしていたらしく、リビングのテーブルには、千歳が部屋を出た時と同じように教科書や問題集が広げられていた。
「…うん。…あ……、ちーちゃん――」
「え?」
「キスマーク」
「!!」
千歳は咄嗟に右手で首筋を押さえた。
(ふーん。いつもそこに付けられるんだ……)
「…ウソ……」
「っ!まーくん…」
「俺もそろそろ寝るわ。…おやすみ、ちーちゃん」
舞はテーブルの上をそのままに、立ち尽くす千歳の横をすり抜けて自室のドアを開けた。
「……、おやすみ…」
部屋に入ると、ドアに背中を預け深く項垂れる。
本当は、なにも気が付いていない振りをするつもりだった…。
(俺ってホント、ガキ……)
そして、すれ違う瞬間、千歳から香ってきた后の移り香を思い出し、深い溜め息がもれた。それは過去にも覚えのある香りで、それを懐かしいと感じてしまった自分にも苛立ちが募る。
(絶対別れさせてやる。これ以上ちーちゃんを好きにされてたまるかっ)