かおく
 尚也は、兄・和也の運転でやって来た車を降りると、懐かしい二階建ての日本家屋に目を

細めた。祖母は尚也達が産まれる前に亡くなっており、この家には祖父が数人の住込みの

家政婦と共に暮らしている。



 ここに来るのは何年振りだろうか…。
            そういちろう
 母方の祖父である惣一郎はとても優しい人物で、末娘の孫である和也と尚也を大変可愛

がってくれた。二人とも惣一郎の事が大好きだったが、母の仕事は忙しく、ここ数年里帰り

をする事が出来ずにいたのだ。





(…あ………)

 和也と共に玄関へと続く門をくぐると、二人が来るのを待ちきれなかったのか、玄関先で
    なが
庭木を眺めている惣一郎の姿があった。



「尚也…!」

「おじいちゃん…」

 庭石を踏む音で二人の姿に気付いた惣一郎は、早足に尚也の元に駆け寄り、強く抱きし

めた。
    そうめい            もろ
 この聡明だが、実は繊細で脆い可愛い孫に何があったのかは、全て知っている。



「おじいちゃん…おじいちゃんっ」

「尚也……、人間にはこうして泣く事しかできん時がある。……今できる事をしなさい。今の

尚也がするべき事は、自分の為にたくさん泣く事だ。たくさん泣いて、たくさん眠りなさい」

 尚也は、惣一郎にしがみ付き、子供のように泣きじゃくった。今では自分の方が大きくなっ

てしまったが、尚也を包み込む惣一郎の腕と体は、実際の大きさを感じさせない温かさが

あった。


                                               あんど
 そんな二人の姿を目の当たりにし和也は、ここに連れて来て良かったのだと、安堵の溜め

息をこぼした。

 手をかざして空を見上げると、ほぼ真上に明るく輝く太陽が見えた。祖父と過ごすこの時

間が、尚也にとっての一筋の光になってくれる事を願わずにはいられない。









「疲れたか…?和也…」
                      い                     こうべ
 居間のソファに腰掛け、家政婦が煎れてくれたお茶を両手で持ちながら頭を垂れていた和
    ふすま
也は、襖を開けて部屋に入って来た惣一郎の声に顔を上げた。

「尚也は……」

「ああ、眠ったよ」
                  どうき
 はじめ、尚也は「横になると動悸がする」と訴え、眠る事を拒否していたが、惣一郎が知り
          もら                                   とこ
合いの医者から貰ってきていた、動悸と不安を止める作用がある薬を飲んで床についた。

惣一郎はベッドに入った尚也の頭を、尚也が眠りに落ちるまで優しく撫ぜ続けていた。少し

でもこの子の心が安らぐようにと願いを込めて……。



「あれは『パニック障害』だな…」

「パニック障害……?」

 和也は惣一郎の言葉を聞き返した。
 しんてきがいしょうご
「『心的外傷後ストレス障害』という言葉は聞いたことがあるだろう?それと同系列の病で

な、過度のストレスによって、不安を抑える作用のあるGABA(アドレナリン抑制ホルモン)が

働かなくなった為に自律神経に異常をきたし、様々な発作的症状が現れるのだ…。命に関
                                     やっかい
る病気ではないが正直、一度発病してしまうと簡単には治らん厄介な病でもある……」



 パニック障害とは不安障害の一つで、他に全般性不安障害、恐怖症、強迫性障害、不安

感を伴う適応障害、心的外傷後ストレス障害などがあり、以前は神経症やノイローゼなどと

呼ばれていたものだ。



「そんな……。俺は…どうすればいいですか……」

 泣き出しそうな顔で答えを求める和也に、惣一郎は優しく微笑んで言った。



「何も難しい事はせんでいい……」



「でもっ……」

「あの子は人の心に敏感な子だ…。和也がそんな事を考え悩んでいれば、かえってあの子

に負担を与えてしまう。余計な事は考えず、ただ側に居てやりなさい」

「………はい…」


     うなだ
 力なく項垂れた和也を、惣一郎は優しく見つめた。

「ワシは、お前の事も心配だよ、和也…」

 その言葉に和也は驚いて顔を上げる。

「え……。俺…は、別に……」
                        ぶんり
「パニック障害というのはな、幼児期に分離体験があると発症しやすいと言われておる。

分離体験とは、母親や父親などの愛着人物の死や、離婚、仕事などで家に帰ってこない

などの経験をいうのだが、お前達二人は両親が忙しく、寂しい幼少期を過ごした…。そのよ

うな経験があると、幼児期の分離不安を大人になっても無意識下で引きずってしまうのだ。

つまりは、尚也と同じように和也…、お前もまたそのような危険を背負っておるという事だ」

「………」

「あまり思い詰めるな。…このままではお前まで倒れてしまう」



 和也は何も言う事が出来なかった。今言葉を発すれば、涙も一緒に溢れてしまいそう

で……。



 そんな和也の頬を、惣一郎はしわしわの両手で優しく包み込むと、愛しげに言葉を続け

た。
     つら
「和也も辛かっただろう…。尚也と一緒に、お前もここでしばらく休んで行くといい…。少し

ぐらい会社も休めるだろう?」

「じいちゃん…っ、俺っ……」



「大丈夫だ。お前の辛さも優しさも、あの子はちゃんと感じとるよ。和也は本当に良いお兄

ちゃんだ…。えらいな…。……もう大丈夫だから、お前も少しこのジジイに甘えて行きなさ

い」



 自分自身ですら気付いていなかった和也の苦しみを、惣一郎は分かってくれていた…。

それが、どれ程の救いになるか……。
     あんたん
 和也は暗澹たる重圧を感じていた心が、流した涙と共に軽くなっていくのを感じた。





 その晩、和也もまた惣一郎の家で、クレアの死を知ってから初めて、安らいだ眠りにつく事

ができた。




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心の棺