第三詞章 神産み
《出典》『記』、『紀』第六の一書
[詞章の説明]
高天原神話の中での意義
この詞章は、ここで生まれた個々の神々という観点からすれば、まだ主要神も登場してこないので、それほど重要な詞章だとは思えない。しかし、どういう構想に基づいて創られたのかを考えるなら、詞章全体としては高天原神話の中でかなり重要な意義を有していると思われる。
伊奘諾・伊奘冉はこの詞章の神々をどこに産んだのかを考えてみよう。もちろん海(海の神)などは現実の海だろう。だから、現実の世界を創ったという意義は当然ある。
だが、それだけではない。『記』には、例えば「天之水分」「国之水分」のように「天」と「国」とで対になっている神が何組か登場するが、これらの神は高天原と国土とに産み分けたのだと思われる。それ以外の神は、ほとんどが高天原上に産んだ神だと考えた方がいいだろう。伊奘冉が産んだ「国土」とは、「国土の神」なのだろうから、自ら子を生める。伊奘諾・伊奘冉がわざわざ国土に山や川などの神々を産む必要は何もない。これに対して、高天原は神ではないので、別に神々を産まなければならない。以後の詞章で高天原の具体的な描写が出てくるが、そこには現実の国土の様子が投影されているようである。その現実の国土に似せた世界を高天原に創り出すこと、それがこの詞章のもう一つの意義だと思われる。
ここで問題になるのは、水平線の意義である。水平線はおそらく高天原(天球)と何らかの形で関わっており、水平線下の天球は高天原とは別の意義が与えられている。さきに例に挙げた「天之水分」「国之水分」なども水平線と関係する神ではないだろうか。また、これは地平線にも言えるようである。
倭人たちの世界観の問題であり、三種の他界とも関係するので、試論でも考察しているが、以後の解説を理解するためにも留意しておいてもらいたい。
神と星との関係
この詞章で高天原に生まれた神と星との関係は、具体的にはよくわからない。しかし、以後の詞章から考えるなら、ここでも倭人たちが神々を個々の星に比定していたのは確実だろう。天鳥船のような他の詞章にも登場する神の中には、その星を具体的に推定できるものもあるが、これも試論で考えたい。この詞章は星−すべての星ではない−の誕生神話でもある。
ただし、伊奘諾・伊奘冉が星−日や月も含めて−を「産んだ」のかは疑問がある。星を「産む」力がなかったのではないかとも思える。この詞章で言えば、伊奘冉が高天原に山(山の神)を「産んだ」ことで星が「生まれた」のではないだろうか。日や月の場合も同様で、誕生の経緯がはっきりしている神はすべて「生まれた」のであって、「産んだ」のではない。伊奘諾は日神や月神を「子」と言っているが、それが通常の親子関係と違うのは明らかである。むしろ伊奘諾や伊奘冉はただ誕生の契機を提供しているだけのようにも読める。
だから、日や月や星を「産んだ」母神は別にいるとも考えられる。あるいは、ある契機によって自ずから生まれたと倭人たちは考えていたのかもしれない。それは、淤能碁呂島=北極星や素戔嗚、さらには天照の子である天忍穂や天穂日なども同様である。
他界にいる素戔嗚以外は、すべてその本体が目に見える存在なので、伊奘諾・伊奘冉系列の具象神だと単純に扱うことはできる。そう解しても以後の解釈には格別の矛盾は出ないが、逆に叙述に矛盾や混同があることになってしまう。だいいち、男神や女神が単独で子を「産む」こと自体が「非常識」だろう。それならわざわざ伊奘諾・伊奘冉を組で創出する必要もない。単独神で十分である。倭人たちがそんな単純な間違いをするとは考えられないので、記紀神話を精読するほど引っかかってくる。彼らが天体をどう捉えていたかだけでなく、生命とは何か、心とは何かという問題に対する彼らなりの考え方を解く鍵のようにも思える。