第四詞章 軻遇突智
《出典》『紀』第六の一書を基に、『記』、『紀』第七の一書で内容を補った。
[詞章の解釈]
記紀神話に星は登場しないのか
通説は威力があって光るものをすべて雷神や剣神にしているので、ここで誕生する磐裂・根裂などの神や伊奘諾が剣にする天尾羽張も雷神、剣神としている。だが、そういう画一的で型にはまった解釈をしている限り、神話の意味を掴むことは不可能である。もっと具体的に解釈しなければ、これほど劇的な場面が何の生彩も放たないだろう。
もっとも、それも結局は伊奘諾・伊奘冉が瀬戸内海の小島にいると解してしまったためである。記紀神話には星は登場しない(例外が第二一詞章「武甕槌と経津主」の天津甕星)というのが通説だが、そうきめつけていたために、こんなに素晴らしい神話を見逃していたことになる。
天の川の誕生
この詞章の意味は、伊奘諾・伊奘冉が高天原(天球)にいるとしただけで明らかだろう。天安河とは天の川であり、その岩群を染めた磐裂・根裂・磐筒男・磐筒女は天の川の星々の神である。つまり、この詞章は天の川誕生神話である。そうすると、伊奘冉が軻遇突智を産むのは火山の噴火からの神話的連想であり、伊奘諾が剣にする天尾羽張は彗星の神格化だと解することになる。
造化の母神は噴火する火の神を産んだために身を焼かれて死んでしまった。その死を悲しんだ父神は、母神を死に至らしめた火の神を彗星の神で斬ったところ、その血が飛び散って天の川の星々になった。そういう神話である。
夜空に静かに横たわる天の川の無数の星々は、造化の母神の死と引き換えに生まれたのだという悲しくも美しい物語であり、それが、天高く噴き上がる火の神を巨大な父神が彗星の神を剣にして斬るという壮大な構想のもとで語られている。この時の伊奘諾は、おそらく地平線上に立って仰角七〇度ほどに達する大巨神だと思われる。
その雄大な想像力や美しい詩情は「倭の神話」中でも屈指のものだと言えるだろう。「倭の神話」には、この詞章のような壮大で美妙な詩想の結晶もある。あるいは、繊細な感性の発露もある。深い思索の賜もある。その中に豊かな多様性を抱えていることも、「倭の神話」の特色の一つである。
天の川以外の星の神々
他の星の神々についても考えてみよう。
軻遇突智を斬った剣である天尾羽張は第二一詞章「武甕槌と経津主」にも登場する。その内容を考えあわせると、彗星一般の神ではなく、特定の彗星の神のようである。彗星は現在二〇〇〇個以上出現が記録されており、望遠鏡の発明以前から四〇〇個ほどは知られていたという。だが、この時代の記録に残っている彗星で、現在具体的な比定がなされているのはハレー彗星しかない。ハレー彗星は約七六年周期なので、もし天尾羽張がハレー彗星の神だとしたら、この詞章と第二一詞章の構想にはそれ以上の年数を要していることになる。ただし、別の彗星であっても、古代人が同じ彗星だと誤認するだけの十分な理由があれば問題はないだろう。例えば、同じ時季の同じ位置に同じように彗星が現れれば、彼らはそれが同じ彗星だと考えたのではないか。いずれにせよ、天尾羽張が「彗星の親玉」のような神であることは間違いないと思われる。
一回限りの特異現象は、その結果が現実に残っていないと神話にはなりにくい。現象の後では、それが確かに起こったということを証明できないからである。だから、超新星爆発のような二度と起こらない天体現象は、当時なら結果を確認できないので、どれほど大規模なものであっても神話に採用されていることは期待できない。同様に、一回だけ彗星が現れたというのでは、星の歴史物語や伝説にはなっても神話にはなれないだろう。星が神話になるためには同じ現象が最低でも二回は繰り返されることが必要である。例外があるとしたら、すでに神話に採用されていた星がその後何かのせいで現在の状態に変わってしまったような場合、例えばすばる(プレヤデス星団)の七星が六星になってしまったような場合だけだろう。外国にはこれを語った神話や伝説がいくつもある。
天の川の星々の神と同時に誕生した甕速日と樋速日の二神も星の神であり、これも第二一詞章の一方の主役である武甕槌や経津主と関係があるのは疑いない。また、樋速日は第一〇詞章「二神の誓約」の場面で誕生したという異伝が『紀』にあるので、そちらとも関係があるかもしれない。樋速日の神格は第一〇詞章の解説で検討しているが、そこで述べているように、樋速日と甕速日の二神が恒星の神であるとは考えにくい。
『記』の「脚色」
ところで、『記』を読んだことのある読者はわかるだろうが、『記』のこの詞章をどれほど精読しても、それが天の川誕生神話だとはまず読み取れない。「天安河」という語句が欠落しているし、何と言っても、軻遇突智が斬られたことで生まれる神の絶対数が少なすぎる。『紀』の「五百箇磐石(多くの岩群)」を『記』は「湯津石村」と記して意味を曖昧にしたために、そこで生まれた石析(磐裂)・根析(根裂)・石筒之男(磐筒男)の三神が天の川の星々の総称だとは誰も読めないようになってしまった(『記』には磐筒女が入っていない)。
『記』の内容は『紀』よりずっと豊富なので、詞篇でも『記』を基にした詞章は多い。しかし、『記』にはこの詞章のように内容を整理し、体裁を整えたために、あるいは異なった伝承をすべて取り込んだために、本来の意味を失った神話がかなり見られる。また、相当の「脚色」も加えられている。天武・持統朝で「倭の神話」をどのように誤解したかを知る上では有益なのだが、「倭の神話」を復元しようとするなら『紀』とのつき合わせは不可欠である。
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