第五詞章 黄泉国訪問
《出典》『紀』第六の一書
 
[詞章の説明]
 
  黄泉
 この詞章で、伊奘諾が地平線(あるいは水平線)より下に行った(潜った)ことは間違いないだろう。黄泉国との境を『紀』第六の一書では「泉津平坂」と記し、伊奘諾はそこで黄泉の門を塞いでから地平線上に出てくる。ところが、『記』にはこの「泉津平坂」(表記は「黄泉比良坂」)が「出雲国の伊賦夜坂」だと書いてある。天武・持統朝の「場所探し」の苦労がうかがえるが、そのためにかえって意味が取れなくなってしまった。
 もしこの詞章が奈良伝承のものならば、伊奘諾は西北西(奈良から見て出雲方面)に出てきたのだろう。南南東(同じく熊野方面)から入ったのではないか。地下は国土と天球で共有しているとするか、国土の下を通って反対側に行ったとするか、他にもいろいろ考えられるが、詳しくは試論で考察する。
 
  二種類の死の起源神話
 ところで、記紀神話には死の起源神話が二種類ある。この詞章と第二七詞章「木花開耶姫)」だが、これは第一詞章の解説で述べた二種類の霊魂に対応する。この詞章は、伊奘冉が言い渡しているので、伊奘諾・伊奘冉系列である魂の死の起源神話である。一方、第二七詞章は火瓊瓊杵にまつわる神話であり、火瓊瓊杵は天孫、つまり高皇産霊の孫なので、そちらは高皇産霊・神皇産霊系列である魄の死の起源神話である。
 西洋流の「霊魂の不滅」、つまり「肉体は滅んでも精神は滅びない」という考え方に対し、「倭の神話」は、「生命(魄)に死があるように、心(魂)にも死がある」という倭人の考え方を表明していることになる。
 この一点だけを取り上げてみても、仏教思想を受容する前に、すでに倭人の思想水準がどれほどのものであったかは十分うかがい知ることができる。西洋思想とは明らかに異なる。東洋思想の一種ではあるが、どの思想とも違う、独自の考え方だろう。おそらく現代の日本人でも、この考え方は理解できるのではないだろうか。神話が死んでから一四〇〇年も経つのに、この種の基本的なものの考え方はなかなか変わるものではないのだろう。こういう死に対する思想を一四〇〇年以上も前に古代の倭人は意識化し明確化して、彼らの世界観の体系の中に組み込んでいる。
 また、こういう素地があったからこそ、仏教は比較的容易に日本に入り込めたとも言えるだろう。キリスト教では難しかったのではないか。仏教にある「輪廻転生」というインド流の考え方は「倭の神話」とはかなりの隔たりがあるが、それは仏教思想の前提であって、仏教思想そのものではない。「倭の神話」と仏教とは「魂の死」という最終の一点で重なる。そして、もう一点、より重要な部分でも重なると思われる。
 本書は「古代倭人の死生観」を詳論する場ではないので、それは第二七詞章の解説で触れるにとどめている。ただし、この後の詞章解説や試論でも関連する事項が出てくるので、倭人たちの死生観は様々な面から考察することになる。
 それにしても、死をどう考えるか、という哲学的思索の結果まで、体系の中の最も適切な場所にきっちり組み込んであるところが「倭の神話」の奥の深さであり、幅の広さだと言えるだろう。死を単に生命体の死(肉体の死)としてしか考えようとしない現代人より、よほどその思索は深い。
 だから、現代流の死に対する単純な見方で記紀神話を読むと、「二種類も死の起源神話があるのは矛盾していて、いかにも古代人の浅慮の表れだ」などという、それこそ「浅慮」な解釈しかとれないことになる。
 神話を自分の常識で判断し、理解できないからということで古代人を馬鹿にする。そういう発想しか持たない者に、神話はその豊かな財産を与えようとはしない。まず自分の常識を疑ってみること、そして謙虚に接すること、そのときに、われわれの先人が遺してくれたこの偉大な作品は、自らを生み出した者の子孫に計り知れないほどの精神的遺産をきっと受け継がせてくれるだろう。


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