第一一詞章 素戔嗚の勝さび
《出典》『紀』本文、『記』
[詞章の説明]
天つ罪
この詞章も天武・持統朝は誤解したと思われる。延喜式に「天つ罪」「国つ罪」という罪が載っており、農耕や祭式に対する罪が「天つ罪」になっている。さすがに馬の皮を剥ぎ、機屋の屋根に穴をあけて逆さまに投げ込む、などという罪は規定されていないが、その多くがこの詞章の素戔嗚の狼藉と対応している。
もっとも、この詞章を「罪」という文化の起源神話だと解することはできる。だが、なぜ素戔嗚の行動として神話になっているかが説明できない。むしろ、この詞章は前詞章と次詞章とをつないでいるだけだと解した方がいいように思える。第九詞章「素戔嗚」の解説で述べたように、素戔嗚は前詞章の誓約で勝たなければならず、次詞章の結果高天原から追放されなければならないので、この詞章で暴れ回ってもらう必要がある。その具体的な内容として、当時の人々にとって最も困った蛮行だと考えつくことを梅雨の印象と重ね合わせて並べ立てたのではないだろうか。あまりこの詞章の意義を過大に評価すると、前詞章と次詞章がかすんでしまう。過小に評価するくらいの方が問題は少ないと思われる。
「年」と「新嘗」の意義
この詞章にはもう一つ問題がある。「春」「秋」と「新嘗」が『紀』に記されていることである。
『記』ではこれらが削られているが、それは次詞章を大嘗祭と結び付けるためだと思われる。「新嘗」がここに入っていたのでは結び付かなくなる。『紀』の大嘗祭の初見記事が天武天皇の時なのは当然である。それ以前に行われたことはなかったのだから。
もっとも、本書の解釈でも、「年」の起源が組み込まれているとした場合には「秋」と「新嘗」が『紀』に載っている理由を説明するのはかなり難しい。「倭の神話」の「年」と「新嘗」は天武・持統朝以後とは意味が違うと考える以外にないだろう。
「年」については第一九詞章「天穂日」の解説で考察しているが、現在の一年を二年、あるいは三年として計算していた可能性がある。
また、「倭の神話」の「新嘗」は、第二〇詞章「天稚彦」の内容も考えあわせると、初夏に行っていたようにも思われる。天武・持統朝以後の「新嘗」は冬一一月(旧暦)に行われるが、第三一代用明天皇は夏四月(旧暦)に行っている(『紀』用明天皇二年(西暦五八六年)四月条)。夏四月の「新嘗」なら、この詞章とも第二〇詞章とも時季はぴったり一致する。
一方、「年」の起源は含まれていないとするなら、素戔嗚が高天原にいた期間が長くなるだけで、解釈上何の矛盾も生じない。しかし、次詞章の季節が夏であることは確実なので、そうすると素戔嗚は一年半も高天原にいたことになる。そこまでの必要は何もないと思われる。また、素戔嗚の狼藉は何からの連想か、次詞章とどうつながるか、次詞章の「すべてが常闇(とこやみ)になり、昼と夜の区別もつかなくなった」は何から着想を得たか、なども考慮するなら、春から梅雨にかけてととる方がむしろ適切なように思える。