高天原神話・素戔嗚神話(第一二詞章「天岩屋」まで)
 
第九詞章 素戔嗚
《出典》『紀』第六の一書を基に、『記』、『紀』本文で一部補った。
 
[素戔嗚の神格と素戔嗚神話の意義]
 
 まず素戔嗚の神格について説明しよう。
 本書では素戔嗚の神格を「風の神」と記すが、単なる風神と受け取られると小さいものになってしまう。「気象の神」とすると大きくなりすぎる。適当な語が見つからないが、「気象を司るものとしての風の神」というくらいに考えてほしい。だから、微風・薫風の類は素戔嗚の関知するところではない。また、雷や雨などの気象現象も直接素戔嗚自身が行っているわけではない。いわば気象現象の総元締めとしての風の神である。彼が何も活動しなければ空は晴れ渡り、日の神が最大の力を発揮する。彼が風を吹かすことで風は雲を湧き起こし、雲は雨を降らせる。北風のように、雲や雨を伴わずに彼が単独で活動することもある。
 この素戔嗚の神格は、彼が登場するすべての詞章を勘案して導き出した本書の結論である。以後の解説ではこの結論を前提にしているので、論理が転倒することになるが、素戔嗚の神格をそう解して彼の行動を矛盾なく説明できれば、その正当性は認めてもらえるだろう。
 以上のように、本書は素戔嗚の神格を「気象を司る風の神」とするので、素戔嗚神話とは「気象神話」である。
 高天原世界(天球の世界)がほぼ完成した段階で気象神話の序曲が奏でられ、次いで天体と気象との相関が変調を交えながら美しく歌われる。天体神話が幕を閉じるや、気象神話が前面に出て、そのまま第一部「天地」の詞章は終幕を迎える。こうして、「天地」の詞章は、現実世界の外部条件である天体と気象の起源を語り、そこに三種の他界をも組み込むことで、倭人たちが生きる世界の外部環境の態様を見事に描き切る。それが第一四詞章「八岐大蛇」までの叙述の流れである。
 
[第一二詞章までの叙述の流れ]
 
 この詞章の素戔嗚の行動が台風からの神話的連想であることは言うまでもないだろうが、これは逆の意味での起源神話である。つまり素戔嗚が現に天下にいないことの起源神話である。また、第一二詞章「天岩屋」は素戔嗚が現に高天原にいないことの起源神話でもある。なぜそんな回りくどい形を採ったのか、現代風に言い換えて説明してみよう。
 素戔嗚の本体は目に見えないし、その実体もよくわからないが、彼自身は有形力を行使できる存在である。また、彼の子孫である霧や雪などの気象神もみな有形力を行使できる存在であり、具象神なので、素戔嗚も抽象神ではない。だから、彼は伊奘諾・伊奘冉系列の具象神ではあるが、実体不明の神である。
 さて、彼の現在の所在を考えてみると、風が吹いてくる先の、雲の湧き出る地にいるようである。つまり見ることのできない他界(根国)にいることになる。しかし、生まれた時点で伊奘諾が彼に根国を支配しろと言って、第一四詞章「八岐大蛇」に続けるという単純な形にすると、以後の高天原神話が成り立たなくなる。彼には一度高天原に行って活躍してもらわなければならない。そうでないと高天原の現実を説明できない。そのためには高天原に行く理由が必要である。ところが、そこに居続けられたらこれも現実と合わないので、今度は追い出さなければならない。そこでもう一度高天原で活躍?してもらって、もう一つの現実と結び付け、これを使って追い出す。と、素戔嗚が根国に行き着くまでの話の展開は論理的思考を尽くして組み立てられている。これ以外の展開では現実と一致させることができない。
 種明かしをすれば、「なあんだ」となるのかもしれない。だが、これは驚異的なことである。神話作者はこの逆から考えている。作者の前には現実がある。それしかない。
 風の神がいる。彼は日の神に匹敵するほどの、いや、時として日の神をはるかに超えるほどの強大な力を行使する。だが、彼の実体はわからない。彼の行動を予測することも困難である。そういう現実がある。これとは別に、高天原に不可解な現象があり、もう一つ重要な現象もある。そういう現実もある。それはなぜなのか。いったい神話的過去に何があったのか。
 その神話的過去を再現し、現実の態様を矛盾なく説明すること。それを考え尽くした結果が、まったく無関係に見える三つの現実を結び付けることであり、そこに築き上げられた必然の話の展開である。その上、そういう苦労を少しも感じさせないほどごく自然に叙述が流れていく。それはどれほどの思考力と想像力を要することだろうか。
 そういう話だからこそ、すべての人を納得させるだけの説得力を持ち、真実の話として認められて神話にまで昇華したのである。
 さらにもう一つ、私の直観が正しければ、この詞章から第一二詞章「天岩屋」までにはもっと驚嘆すべき意味さえ込められている。ここには「年」の起源も語られている。
 この詞章は台風の季節、つまり秋である。第一〇詞章「二神の誓約」は冬。第一一詞章「素戔嗚の勝さび」は春から梅雨にかけて。そして、第一二詞章で梅雨が明けて「太陽の季節」が始まる。
 神話的過去の最初の一巡によって「年」という時間の単位は決定した。そして今も、太陽と風との相克によって季節は巡る。そう古代人は考えていたのではないだろうか。
 
[第一二詞章までの神話の発展]
 
 ところで、第一二詞章「天岩屋」の解説で述べるように、高天原神話の中で最も重要であり、かつ、最も古い神話が第一二詞章の天岩屋神話であることはまず間違いない。だから、神話作者が素戔嗚を高天原に昇らせた当初の理由は、天岩屋神話を高天原神話の最後に位置付けるためだと思われる。素戔嗚を介在させることで、第六詞章「三貴子誕生」までの高天原世界が完成する過程を語る神話と天岩屋神話とを接合したのだろう。
 この時点では、おそらくまだ第一〇詞章「二神の誓約」は含まれていなかった。第一〇詞章の構想がなされたのは、その古型が成立してからかなり経った後のように思える。
 『紀』第七段第三の一書は第一〇詞章と第一二詞章の順序が逆になっている異伝であり、その並び方が詞篇に採用した最終型より古い形だと思われる。古型成立後、第一二詞章の後に単純に第一〇詞章を付加した形式である。このことは、第一〇詞章の成立が第一二詞章よりずいぶん遅かったことをうかがわせる。
 その『紀』第三の一書では、素戔嗚が一度高天原を追放された後、誓約をするためだけにもう一度高天原に昇っている。ここで、素戔嗚が高天原に昇らなければならなかったもう一つの理由がわかる。第一〇詞章を成立させるためである。
 つまり、第一〇詞章と第一二詞章の二つの現実を説明するために、神話作者は素戔嗚を高天原に昇らせたことになる。
 しかし、『紀』第三の一書の形では難点がある。何と言っても、天岩屋神話が高天原神話の最後に来ない。「年」も二巡する。そこで順序を入れ換えて最終型の並び方にしたのだと思われる。


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