第一部「天地」総括
太陽は日々同じように天を巡り、年ごとに同じ運行を繰り返す。その規則正しい運行は人間の信頼を決して裏切りはしない。人間にとって、太陽はまさに信頼できる相手である。
そして、その力の何と偉大なことか。天地を明るく照らすだけではない。地上に降り注ぐその光はあらゆる生命の泉となって、その命を育み、慈しんでくれる。太陽が人々の信仰の対象になるのは当然だろう。
しかし、太陽は天候を支配しない。天候を支配するのは風であり雲であり雨である。風は雲を湧き起こし、雲は雨を降らせ、雨は大地を潤す。その雨によって大地も人間も生気を与えられ、瑞々しさを保つことができる。気象現象もまた、人間が生きていく上で欠くことのできない重要なものである。
だが、その天候の何と気まぐれなことか。吹いてほしいと願うときに風は吹かず、降ってほしいと望むときに雨は降らない。稔りの季節に台風は暴れ回り、折角の収穫を台無しにする。その予測できない動きに、人は−特に農耕民は−一喜一憂することになる。
また、太陽と風と、この二つの力は人間にとってあまりに強大である。
もし風や雲や雨が太陽の力を弱めてくれなかったら、大地も人間もたちまち枯渇してしまう。もし太陽が風や雲や雨の跋扈を許したら、大地も人間もたちまち洪水に呑まれ、凍てついてしまう。
人間が自然の中で生きていくとき、どちらも必要である。どちらも大切である。そして、どちらかだけが強くても困る。ある時には太陽の力が勝り、またある時には風の力が勝る。太陽と風のその微妙な力の均衡があってはじめて、人間は大地と交わり、日々の暮らしを営むことができる。
風神・素戔嗚が三貴子の一角を占め、日神・天照と対等に近い扱いを受けるのも、また当然だと言えよう。
その、一方に偏らない絶妙な平衡感覚こそが、長い年月にわたる自然との交渉の中から生まれた古代人の偉大な知恵なのである。
天武・持統朝で「倭の神話」を解釈する際、彼らなりに精いっぱいその意味を掴もうとしたようである。その努力の跡は記紀神話の内容からも十分読み取れる。しかし、結果的に彼らは日神・天照をとりわけ偏重して解釈してしまった。残念なことではあるが、それは、すでに大和朝廷が農耕から離れ、農耕民の心を失っていたことを証明するものなのかもしれない。
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