第二部 国
 
[「国土」「国」の意義]
 
 ここで、断っておきたい。
 本書で「国土」「国」とは、政治上の概念である「国家」の意味を含まない。近代の歴史で記紀神話がどれほど「国家」意識の高揚に利用されてきたかを鑑みるなら、この点はくどいほど念を押す必要があるだろう。「愛国心」とは「国を愛する心」であって、「国家を愛する心」ではない。両者を混同することは精神の怠慢であり、むしろ「国家を愛した」ために「国」を危うくしたのが近代の歴史ではなかったか。
 本書では「国土」は「陸」の意味に近く、「人の住める土地」とでも理解してほしい。
 「国」には土地以外の要素が含まれるが、本書では「人の生活の場とその周囲にあって、その人自身が一体感を抱ける秩序立った空間の広がり」という意味で用いる。個人−われ−に還元すれば、それは「くに=郷里」になり、集団−われわれ−として捉えれば、その範囲は当然拡大して「くに=国」になる。「われわれ」の範囲が拡大すれば、「くに=国」の範囲もまた拡大するが、「倭の神話」が想定している「われわれ」がどういう集団なのかはよくわからない。本書を読んだ結果から読者が判断してほしい。
 現代のわれわれにとって、「われわれ=人間」ということになれば、「くに=地球」になるのだが、将来そうなる日は来るのだろうか。
 とにかく、そういう意味で「国」を捉えるなら、「くに=郷里」で政治機構を連想する人がいないように、「くに=国」でもわれわれがそこから思い浮かべるものは自然であり、民俗であり、風土であって、政治はそこに何の関わりも持たない。
 日本の場合、「国」の境界と「国家」の境界がたまたま一致し、それが長い間続いてきたために、両者は混同されやすいし、また、わざと混同させて「国家」がこれを利用する虞れも大きい。「国家」は「国」に従属すべき存在であり、「国」に奉仕するためにのみ、その存在が許される。「国家」が「国」を超越しようとするときから歴史の不幸は始まる。われわれ自身の問題として、このことは心に刻みつけておきたい。
 
[記紀神話の政治性]
 
 ところで、先に「本書で「国土」「国」とは」と書き、あえて「記紀神話で「国土」「国」とは」としなかった。記紀神話の中に「政治性」は何もないと主張する論者はおそらく一人もいない。本書もそう主張するつもりはない。天武・持統朝の「倭の神話」の解釈は多分に政治性を含んでおり、それが記紀神話の内容にも影響を与えていることは否めないだろう。しかし、第二部「国」の詞章には誤解に基づく政治的改変はあっても、「政治的造作」はほとんどないと思われる。最も政治性が強いと言われる「天孫降臨神話」にはまったく「造作」はないと考えている。もっとも、『記』には過誤による改変が見られるが、それは他の詞章でも同様だろう。
 だから、第二部「国」の詞章にも骨格や肉付きや表皮には何の造作も加えられていない。もし筆録段階で骨の何本かが故意に入れ換えられていたとしたら、「倭の神話」は復元することが困難だったろうし、それなら本書も成立しなかったことになる。ほとんど「倭の神話」のままだからこそ、本書は安心して記紀神話は「神話」だと主張できる。
 また、このことは天武・持統朝の政治的解釈もあくまで誤解に基づくものであり、自分たちの意に沿うように恣意的に解釈したのではないということも意味している。その気になれば、彼らはいかようにも改変できたはずである。
 
[「国」の詞章の全体像]
 
 本書では第二部「国」の詞章を分類して、第一八詞章「国造り」までを「大国主神話」、第一九詞章「天穂日」から第二三詞章「事代主と建御名方」までを「国譲り神話」、第二四詞章「火瓊瓊杵」から第二六詞章「猿田彦」までを「天孫降臨神話」と呼んでいる。「出雲神話」という言い方をするときは第二三詞章までを指す。記紀神話では天孫降臨の後、筑紫を舞台にしたいわゆる「筑紫神話(日向神話)」が続くが、本書は天孫・火瓊瓊杵の子が生まれる第二七詞章「木花開耶姫」を最終章にしているので、そこまでを解説する。筑紫神話を加えなかった理由は第二七詞章の解説で述べる。
 第一部「天地」の詞章は、そのほとんどが天体神話であり、気象神話だった。第一部で天体と気象という現実世界の外部条件の起源を語り終えたので、第二部「国」からいよいよ内部条件に入る。第一八詞章までの大国主神話が「地理神話」である。ここまでで、倭人たちが生きる世界の条件はすべて完成する。


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く に

くに

あまのほひ              ことしろぬし たけみなかた

ほのににぎ               さるたひこ

このはなのさくやびめ