第一七詞章 根国行き
《出典》『記』
 
[須勢理姫と神語歌]
 
 まず須勢理姫の神格から説明しよう。須勢理姫は雪の女神である。これは確定できる。素戔嗚の娘なら雨や霧の神かもしれないと言う人があるかもしれないが、次に紹介する八千矛(大国主)と須勢理姫の交わす一組の歌を読めば、このことは同意してもらえるだろう。
 この歌は、『記』では神語と名付けられていて、それだけで独立した詞章になっている。饗宴の席で一組の男女がそれぞれ大国主(八千矛)と須勢理姫に扮して掛け合った歌だろうと説かれているが、そういう背景はこの際問題ではない。
 この歌は夫である山の男神と妻である雪の女神との交歓の歌ととったとき、はじめてその素晴らしさが理解できる。一夫多妻という当時の習俗の反映があるので、現代人には多少の違和感があるかもしれないが、そんなことは些末なことだと思わせるほどの見事な歌である。ほとんどが比喩表現なので、夫である山の神、妻である雪の神という具体的な姿を思い描いて、じっくり鑑賞してほしい。
 季節は現在の三月。里には春が訪れているが、山はまだすっぽりと雪に覆われている。しかし、山の男神にとっては、もう既に雪の女神のもとを離れて旅に出なければならない時季になっていた。そんなある夜、山に雪が降り積もった後で、雲はいずこともなく消え、空はからりと晴れ上がった。そこで、山の男神は旅支度を始める。
 解説の地の文に続いて、まず山の男神が歌う。
 
 ぬばたまの 黒き御衣を        <桧扇の草の実のように>黒い服を
 まつぶさに 取り装ひ         もれなく揃えて身に着け
 沖つ鳥 胸見る時           沖の鳥が胸を見る時の羽ばたきのように
 はたたぎも 此れは適はず        手を広げて見ると これは似合わない
 辺つ波 背に脱き棄て          寄せる波が引くように 服を脱ぎ捨て
                 
 そに鳥の 青き御衣を          <かわせみのように>青い服を
 まつぶさに 取り装ひ          もれなく揃えて身に着け
 沖つ鳥 胸見る時            沖の鳥が胸を見る時の羽ばたきのように
 はたたぎも 此も適はず         手を広げて見ると これも似合わない
 辺つ波 背に脱き棄て          寄せる波が引くように 服を脱ぎ捨て
                 
 山県に 蒔きし 藍蓼舂き        山の畑に蒔いた蓼藍を臼で舂き
 染木が汁に 染め衣を          その染め草の汁で染めた藍色の服を
 まつぶさに 取り装ひ          もれなく揃えて身に着け
 沖つ鳥 胸見る時            沖の鳥が胸を見る時の羽ばたきのように
 はたたぎも 此し宜し          手を広げて見ると これはよく似合う
                 
 いとこやの 妹の命          いとしい私の妻よ
 群鳥の 我が群れ往なば        <群鳥がいっせいに飛び立つように>
 引け鳥の 我が引け往なば       私が多くの供とともに旅立ったなら
 泣かじとは 汝は言ふとも       <つられて飛び立つ鳥のように>
 山との 一本薄            私が多くの供につられて旅立ったなら
 項傾し 汝が泣かさまく        決して泣きはしないと 強がりを言っても
 朝雨の 霧に立たむぞ         山の麓の一本の薄のように
                    うなじを垂れて あなたは泣くことだろう
 若草の 妻の命            そして あなたが涙とともにもらす吐息は
 事の 語言も 是をば         <朝に降る雨のように>
                    霧となって立ちこめることだろう
                 
                    <若草のように瑞々しい>私の妻よ
                    このことを あなたに伝えよう
 
 そこで、女神は大杯を取り、夫の神のもとへ近づいて杯を捧げながら歌う。
 
 八千矛の 神の命や 吾が大国主    八千矛の神 私の大国主よ 
 汝こそは 男に坐せば         あなたは男なので         
 打ち廻る 島の埼々           巡り行く島の岬ごとに       
 かき廻る 磯の埼落ちず        巡り回る磯の岬のどこにでも    
 若草の 妻持たせらめ          <若草のような>妻をお持ちでしょう
 
 吾はもよ 女にしあれば        でも 私は女なので  
 汝を除て 男は無し          あなたの他に男はいない
 汝を除て 夫は無し          あなたの他に夫はいない
   
 綾垣の ふはやが下に         綾織りの白い帳がふわりと垂れる下で  
 蚕衾 にこやが下に          絹の白い布団が柔らかく掛かる下で   
 栲衾 さやぐが下に          楮の白い布団がざわざわと音を立てる下で
 沫雪の 若やる胸を          <沫雪のように白く>若やいだ私の胸を 
 栲綱の 白き腕            <楮で織った綱のように>白い私の腕を 
 そだたき たたきまながり       その手で抱き寄せ 抱きとめ抱きしめて
 真玉手 玉手さし枕き         そうして 白玉のような私の手を枕に  
 股長に 寝をし寝せ          思いきり脚を伸ばして おやすみなさい 
 
 豊御酒 奉らせ            さあ お酒を召し上がれ
 
* < >内は枕詞とされているもの。訳では敬語を一部簡略化した。
 
 こうして直ちに杯を交わして契りを固め、互いに首に手を廻して今も鎮座している、と地の文がしめくくる。
 
 原文があまりに素晴らしいために、私の拙い訳でさえこの歌の味わいの一端は何とか伝えられるのではないか。「酒」の比喩の意味は大国主の本体が特定できていないと掴めないが、それ以外の服・手・涙・吐息・帳・布団・脚などは、夫・大国主(八千矛)=山の男神、妻・須勢理姫=雪の女神と解した段階で、比喩の意味は知られるだろう。その美しい比喩表現によって、この歌は絶品とも言える作品にまで高まっている。
 ただ、この二首の歌が当初から地の文とともに『記』のようになっていたとすることには疑問を覚える。順序が逆なのではないかと思えてならない。須勢理姫の歌は、「おやすみなさい」と歌っているので夜なのは明らかであり、また、「帳」は降雪、「布団」は積雪の比喩だと解するのが常識だろうから、雪がさらに降り積もっていく静かな夜がふさわしい。これに対して、大国主の歌は、「藍服」を夕方だとすると色彩感覚が少々ずれているように思えるし、「黒服」が夜、「青服」が早朝ならば、「藍服」は朝(あるいは昼)である−都会の空しか知らない人は、「藍色の空」を実感できないかもしれない−。そして確かに、藍色の空を背景にした雪山は崇高なまでに美しい。まさに「よく似合う」。旅立ちの時刻も考慮すれば、むしろこう解するのが順当だろう。
 それならば、雪の夜の歌として須勢理姫の歌があり、夜のうちに雪が上がって晴れ上がり、大国主の歌が続くとした方がぴったりくる。大国主の歌の最後の「事の 語言も 是をば」が歌全体の締めくくり、須勢理姫の歌の最初の「八千矛の 神の命や 吾が大国主」が歌全体の導入のようにも思えるので、形式の上から言っても順序が逆の方が合うのではないか。同じ裾野の広がりを一方は「手」に、他方は「脚」にたとえるのは整合性を欠いているとこだわる人がいるかもしれないが、「手」は尾根、「脚」は裾野ととれば問題はないだろう。
 そういうこともあって、どうも地の文はしっくりしないように感じる。『記』には歌の導入として「須勢理姫はたいそう嫉妬深かったので、大国主は困り果て、旅装を整えて出発する時に、手を馬の鞍にかけ、足を鐙に踏み入れて歌を詠んだ」という地の文があるが、これは歌の内容とずれていて、つじつまが合わない。その上、この文はどうひいき目に見ても上等の文章だとは言えないだろう。かえって歌の価値を引き下げていると言った方がいいくらいである。
 これらを考えあわせると、地の文は『記』に見られる「脚色」の典型的な例のように思える。『記』の「脚色」は体裁を整えてはいるが、「読み物」として面白くしようとして安易な通俗化を施したために、それが逆に神話の意味を損なったり、本来の味わいを殺したりしているものが多い。『記』と『紀』を比べると『記』の方が通俗的だが、この通俗の部分はすべて「脚色」だと考えて誤らないだろう。この点では、『紀』の方が神話としての信頼性ははるかに高い。
 以上のことから、地の文は歌の内容に平仄を合わせて−だが、逆にしたためにぴたりとは合わせきれずに−創作されたものではないかと思えてならない。歌の意味がわからなくなった後の『旧辞』か『記』の筆録段階での創作ではないかと考えているが、私の読み誤りかもしれないので、断定は避ける。だが、仮に筆録段階での創作だったとしても、これを「政治的造作」と言う人はいないだろう。
 ただし、当然のことではあるが、地の文がどうであれ、個々の歌の価値は少しも減じない。たとえそれぞれを単独で鑑賞したとしても、どちらも偉大な歌であることに変わりはない。私としては、順序を逆にして鑑賞するのが最もこの二首の歌の素晴らしさを味わえるとは思うが。だから、この歌の紹介文も、それを踏まえて書いてある。
 そして、私は思う。われわれは二度とあの巨大古墳を造れないように、今後ともこの歌に匹敵するだけの詩歌を持てないのではないだろうか。われわれはもう神を持っていないし、神について思いを巡らすこともないので、もはや神の歌を神話として創ることはできない。その上、この歌は個人の創作力の限界を超えていると私には思える。「集団創作」の偉大さをまざまざと感じさせてくれる歌である。
 ここで須勢理姫の神格について説明を加えると、大国主が山一般の神ではないように、須勢理姫も雪一般の神ではなく、特定の山に降る雪の神だと思われる。大国主系列の神にはおそらく普通名詞の神格化である神は一神もいない。すべてその本体は固有名詞である。もっとも、伊奘諾・伊奘冉系列の神は具象神なので、普通名詞という一段抽象化された概念を神格として持てないのかもしれない。山一般や川一般などという「もの」は地球上どこにも存在しない。存在するのはすべて特定の山であり、特定の川である。もちろん伊奘諾・伊奘冉系列の具象神でも本体が普通名詞に近い神は存在する。素戔嗚系列の気象神などはその典型だが、それは気象現象がもともと固有名詞にはなりにくいためである。しかし、霧や雪のように固有名詞が存在しないものでも、「倭の神話」はできるだけ固有名詞化した上で神格を与えようとしているように思われる。
 「スセリ」は通説では「自ら進んで事を為す」意だとしているが、もしそうだとすれば、雪は降り積もる山を自ら選ぶ、という、雪に対する古代人の思想を表していることになる。さて、現代人は雪と山との関係をどう捉えるのだろうか。
 
[神話論]
 
  神話と小説
 この詞章に「花婿に対する花嫁の父の複雑な心情」という現代の小説や映画や歌曲にもしばしば採り上げられる題材が入っていることは、芥川龍之介が『老いたる素戔嗚尊』で表現した通りである。だが、この詞章ではそれは構想の中の「下敷き」の一枚にすぎない。芥川の作品はこの「下敷き」を主題に採り上げ、その上、そこに人間くさい膨らし粉を大量に入れたために、人間とは異なる神々の躍動感を表現することも読者の想像力を喚起することもできず、ただ「人生の一断面」としての意義しか与えられなくなっている。神話を小説に翻案すると、芥川ほどの作家でさえその程度の作品になってしまう。なぜなのか。その最大の理由をこの詞章を例にして説明してみよう。
 小説を書こうとして、次のような話の筋を考えたとしよう。
 三人の登場人物がいる。父と娘、そして一人の青年である。その青年が父のもとを訪ねてきたところ、娘が青年に恋をしてしまう。父はこれを見て、その青年をなんとか排除しようとあれこれ試みるが、青年は娘の手助けもあってこれをうまくしのぐ。そして、父が青年の態度から彼を少しばかり見直してきたとき、青年は娘と駆け落ちする。その後を追ってきた父は、二人の去ってゆく姿を見て娘を取り返すことを断念し、逆に彼らを暖かく見送るのだった。
 これだけで感動してくれる読者はいない。これは小説の出発点であり、むしろここからが作家の腕の見せ所である。個々の人物の風貌・境遇・性格などを文脈の中で示して人物像を浮き彫りにし、いぶし銀のわき役を配したり舞台となる土地柄を描写したりして彩りを添え、場面ごとの状況に応じた微妙な心情を活写し、最高潮である駆け落ちの場面に向けてどう話を盛り上げていくか‥‥、傑作にするためには大変である。小説の価値は、こういう膨らし粉の出来いかんによって決まる。同じ筋であっても名作にもなれば駄作にもなる。だから、われわれは小説を読むとき、筋を読むよりむしろ膨らし粉を読む。そういう読み方に慣らされてしまっている。
 しかし、神話では、基本的にはこの膨らし粉は一切不要である。むしろ邪魔物だと言った方がいいかもしれない。つまり、小説では出発点であった話の筋が、神話では最終の到着点なのである。
 小説を書くとき、二人の人物の関係は任意に設定できる。親子、兄弟から赤の他人まで、どのように設定しても構わない。例えば「雪子さんは風祭氏の娘である」というのは、幾通りもの組み合わせの中から任意に選ばれたものにすぎない。だからこそそれは出発点である。
 だが、神話で「雪の神は風の神の娘である」というとき、それは決して任意に設定された関係ではない。それは風と雪に対する古代人のすべての経験とそれらへの深い考察から生まれた結論であって、それ以外のあらゆる可能性が次々と否定されていき、最終的に残った唯一の組み合わせである。そして、神話として承認される風と雪との関係はこの一通りしかない。言い換えれば、神話が神話であるためには、これ以外の組み合わせを採用できない。だから、神話として認められた段階で、それは「必然」になる。つまり、「雪の神は風の神の娘でなければならない」ことになる。こうして、それは、例えば「ユークリッド幾何学では三角形の内角の和は一八〇度である」という数学上の定理と同じ重さで聞く者にのしかかる。数学の教科書では一〇個の公理からなぜその定理が成立するかを諄々と説明してくれるが、神話作者は結論の説明を一切しない。だから、神話を聞く者はなぜその結論が成立するのかを自らの全経験・全知識を動員して想像する以外にない。小説の場合に、なぜ「雪子さんは風祭氏の娘である」のかを考える人はいないのとまさに対照的である。
 また、神話に登場する神々はその神格を決定的に担って行動し、その最終的な結果は「天与の現実」になっていなければならない。それならば、その状況に見合った神々の行動はただ一通りしかない。これが自然などを擬人化した寓話とは根本的に異なる点である。だから、神話では話の前提である神々の関係だけでなく、話の筋の個々の文もすべて「必然」になる。先の例で言えば、「山の神は風の神を訪ねなければならない」「雪の神は山の神に恋をしなければならない」「風の神は山の神を殺そうとしなければならない」と続くことになる。その説明は、聞く者の想像力をかえって減殺させてしまうので、むしろない方がいい。こうして、「話の筋」は「必然の連鎖」となって、これを聞く者に解釈を迫る。
 小説で読者に感動を与えるのはどういうものかを先の例で考えてみればいい。任意に設定された三者の関係がいかに必然に転化していくかを描き切ったとき、つまり最高潮である駆け落ちの場面が話の展開によって必然となるように描かれたとき、それは最高の傑作になる。じつに、膨らし粉は任意を必然に転換するためにこそ必要なのである。
 ところが、神話では「話の筋」の段階ですでに揺るぎない「必然の連鎖」として提示されている。それならば、そこにどんな膨らし粉が必要だろうか。
 だから、神話作者は「話の筋」の発見に精力の大半を注ぎ込む。勝手に筋を変えることは許されない。思いつきでちょっとした逸話を挿入することもできない。それは、ちょうど理論物理学者が「法則」の発見に全力を傾けるのと同じである。そして、物理学では簡潔な法則こそ美しい法則だと言われるように、神話でも簡潔な神話ほど聞く者の想像力をより強く喚起する。記紀神話には多くの神々の系譜が載っているが、それは神話の最も凝縮された形であり、神名の意味を知っている者にとって、それ以上の神話表現はないことになる。
 もちろん、この詞章のような説話型神話の場合には、叙述に「潤色」は加えられる。だが、そのほとんどは想像をより膨らませるための比喩表現である。具象語で語られる神話は、比喩を多用するほど内容に磨きがかかっていく。中には「必然の連鎖」の叙述より比喩の方がはるかに多い場合もあり、「因幡の白兎」のように比喩自体を説話化するために小道具が持ち出され、単に寓話として読んでも味わいのあるほどに比喩が成長することさえある。しかし、そのときでも「必然の連鎖」はそれが誤りだとされて訂正される場合以外はそのまま保持されていく。そこに手をつけたら神話は神話ではなくなってしまうからである。だから、どんなに比喩が多くても、神話に登場する神々の神格がわかっている者にとって、神話の意味が失われることはない。そして、すでにみた通り、比喩以外には何も付け加える必要がない。
 その意味で、現代の小説作家は二律背反に悩まされることになる。任意を必然に転換するためには「多言を要する」必要があるが、多くの言葉を用いるほど読者の想像力を狭めてしまう。だから、より少ない言葉で、それが必然だと思わせるような小説、そういう小説こそ望ましい。それならば、雪の女神と山(特定の山)の男神との恋愛小説として、「雪の女神が山の男神に恋をして、二神は結婚した」という神話以上の作品をわれわれはどうやって書けばいいのだろうか。この簡潔な「必然」を上回るものはありえない。
 芥川の失敗はここで明らかである。彼は神話を『今昔物語集』のような説話と同じように考えてしまった。せっかく築き上げられていた「必然の連鎖」に気付かず、三神を人間のように扱って「任意」の関係にしたために、その任意を必然に転換するために「多言を要した」わけである。
 その上、神話では「必然の連鎖」中のどの一文でもそれだけで独立した主題を持てる。「雪の神は風の神の娘である」という、このただ一文から、われわれはどれだけ多くの想像力を呼び起こされるだろうか。どれだけ多くの意味を汲み取れるだろうか。そこに、どれほどの古代人の風と雪に対する経験とそれらへの深い思索を感じることだろうか。「必然の連鎖」の文は、どの文もこれと同じ重さを持つ。
 これに対して、短編小説ではその中に二つの主題を盛り込むことさえかなり困難である。現に、芥川ですら『老いたる素戔嗚尊』の中に主題は一つしか入れられない。だから、短編小説はどんなに頑張っても一編の小説全体でせいぜい神話の一文と同じ重さにしかなれないのである。
 小説として『老いたる素戔嗚尊』を読むなら、それは短編作家としての彼の特質がよく表れた佳作だと言えるだろう。しかし、素材がある以上、作品はその素材と比較される宿命を持つ。『記』のこの詞章と比べられたとき、雌雄の行方はそれこそ「必然」である。
 だから、われわれも神話を小説や説話のように読んではいけないのである。小説や説話のように、登場する神々が単に任意に選ばれたものでしかないなら、そして好き勝手に「神業」を行使するものでしかないなら、その内容は粗筋でしかないため、読んでも何の感興も湧いてこない。しかし、神々が必然のものとして立ち現れて行動し、その結果がすべて現実の中に存在しているとしたら、粗筋は粗筋であるがゆえに一層、彼らの世界観の率直な表明としてその豊かな想像力をわれわれに示してくれる。
 ここで、あるいは反論する読者がいるかもしれない。それでは歴史小説はどうなのだ。そこでは登場人物も事件もすべて「必然」である。だが、われわれは歴史小説の粗筋を聞いたところで何も感動しない。だから、お前の言っていることは詭弁ではないのか。
 こう反駁する人は、「必然」と「事実」とを混同しているだけである。確かに実際の歴史に忠実に小説を書こうとすれば、登場人物の関係は任意に設定できないし、歴史的事件をでっち上げることもできない。だが、それは過去の一回的事実としてそういうことがあったというにすぎない。神話のように、無数の可能性の中から絞り込まれ、選び抜かれた唯一の組み合わせとは根本的に異なる。つまり、歴史小説では「話の筋」が所与のものとなっているだけであり、それを「必然」にまで昇華させるには大きな飛躍が必要なのである。「ある三角形の内角の和を測ったら一八〇度だった」という「事実」と、「すべての三角形の内角の和は一八〇度である」という「定理=必然」とでは天と地の開きがある。
 ただし、「事実」と「任意」との間にも天と地の開きがある。例えば、さきに紹介した二首の神語歌が今まで誰からも正当に評価されなかった理由を考えてみよう。大国主の歌でいうなら、これまで大国主の神格を誤解してきたために、その三種の服の色も無数の色の中から任意に選ばれたものだと考えられてきた。だから、大国主に扮した男がこっけいな仕草で服をとっかえひっかえして見る者を笑わせるのだという解釈さえ生まれてくる。大国主とまで名付けられた神の様子を神話の中の神語という名の歌が歌っているのに、その歌がその神を揶揄の対象にすることなどありえないという「常識」はそこで忘れられる。
 しかし、この三種の服の色がその順序とともに事実を前提とし、その事実をたとえたものだとなると、この語句から受ける印象は見事なまでに一変する。同様に、この歌の描写すべてが人間の動作だと解するなら、それは任意の動作の説明にしかならないので、聞く者に格別の感懐は与えない。事実の描写だと解したとき、比喩はにわかに生彩を帯び、鑑賞する者の想像力を呼び起こす。もっとも、この歌の場合には背後に必然が控えているためになおさらではある。
 「事実」は「任意」と比較されたときにその重みがわかる。しかし、その「事実」でさえ、「必然」と比較されるとき、その重みははるかに及ばない。
 
  「必然」の重み
 人は新事実を発見したり意外な事実に出会ったりしない限り、「事実」によって感動はしない。せいぜい、驚いたり感心したりする程度である。また、一度は感動した事実であっても、同じような事実が何度も繰り返されると、もはやそこからは何の感動も受けなくなる。感覚は麻痺し、より強烈な事実を追い求める。その「強烈な事実」でさえやがては「平凡な事実」に格下げされ、さらに強烈な事実が求められる。その際限のない刺激の追求は現代の世相そのままであり、このことからも、現代は「事実の時代」だと言えるのだろう。
 「必然」は、まさにこの点で、「事実」とはまったく異なる。必然はそれが何度繰り返されても、いや、むしろ繰り返されるにつれてより強く人を感動させる。必然はすべての人を感動させる力を持つ。
 自然科学のあらゆる法則が、その発見に際してどれほど大きな感動をもって迎えられたかを考えてみればいい。発見者はそのとき、きっと「神」を感じたことだろう。
 われわれは、自分と自分を取り巻く世界には、再び繰り返すことのない事実だけしかないことを知っている。「今」はもう二度と訪れない。「昨日」はもはや思い出の中にしか存在しない。今の自分は十年前の自分と同一性を保持してはいるが、そこに流れた十年の歳月は決して押し戻せない壁となって聳え立ち、確実に自分を変えている。自分がこれまで歩んできた足跡は、事実として自分の過去の中にはあっても、自分はもう二度と同じ道を歩めない。人生は一回的事実の集積としてわれわれの中にある。人生を流れる時間の中で、事実はすべて一回だけの特殊な事実としてわれわれとともにある。われわれは「事実」として時間の中に存在している。事実はすべて時間と空間の限定を受ける。そのことを、われわれは知っている。
 だからこそ、そういう事実の奥に、時間も空間も超越した普遍的なものが在ることを知ったとき、人はそこに人間の力を超えた「偉大な力」の存在を感じることになる。そのあまりの大きさに畏れることになる。それは「真実」そのものである。「必然」を知るとは、そういう「真実」を自分のものにすることに他ならない。
 そして、その「真実」こそが、人を感動させ、人を沈黙させ、人の心を揺り動かして止まないものの正体なのだ。古代人はそれを「神」と呼び、擬人化して表現した。現代人はそれを「真理」とか「法則」と呼び、擬人化しないだけである。もちろん彼らが「必然」だと信じていた事柄と、われわれが「必然」だとしている事柄とは同じではない。だが、それは必然の内容の違いであって、意味の違いではない。
 自然科学の教科書には、そういう「必然」が溢れている。
 例えば、先ほどの「三角形の内角の和は一八〇度である」というユークリッド幾何学の定理を考えてみよう。この定理が仮に未知だったとしたらどうだろうか。
 われわれは「事実」しか持てない。だから、個々の三角形の内角の和しか測れない。一〇〇回測ろうが、一〇〇〇回測ろうが、どんな三角形を測ろうが、いつも一八〇度にしかならない。こうして、測れば測るほどそれが不思議に思えてくる。
 そして、ついに「すべての三角形の内角の和は一八〇度である」ということを発見したとき、つまり個々の「事実」はすべてその「必然」に包含され、そこからは一歩も抜け出せないということを発見したとき、人は「事実」を超えた「必然」の圧倒的な大きさを感じることになる。それと同時に、「事実」として生を享けている自分は釈尊の掌の間を飛び回る孫悟空であることも悟る。だからこそ、それから後はなおさら、三角形の内角の和を測る度に、「必然」の偉大な力をより痛切に感じるようになる。
 「必然」とはそういうものである。
 しかし、われわれはそれを学校で「知識」という形で所与のものとして習い覚えてしまうので、そこからは何の感動も受けない。自然科学の法則はその前提として専門的な知識を要求され、法則自体、抽象的で緻密な理論構成がなされているため、われわれが発見者と同じ感動を味わうことはまず無理である。専門家でさえきわめて困難だろう。法則を単に「知識」として理解するだけなら、発見者が辿った過程と同じ過程を辿る必要は何もない。もっと手っとり早い方法はいくらでもある。だが、発見者と同じ道を歩まない限り、感心はしても感動はしないだろう。神話の内容を「知識」として知っていたところで、少しも感動しないのと同じである。
 われわれは自然科学の法則を「必然」として信じてはいる。だが、その「必然」はもはやわれわれの手の届かない所に行ってしまった。自ら発見するものではなくなってしまった。単に「知識」として知っておくべきものに成り下がってしまった。だから、現代人は「必然」を「当たり前」のこととして頭の中で片付けるだけで、その驚異を身にしみて感じることはできなくなってしまった。
 古代人は神話を「必然」として信じていた。その「必然」は彼らとともにあった。彼らが自ら発見するものだった。決して「知識」として知っておくべきものではなかった。だから、彼らは「必然」の驚異を身にしみて感じた。そこでは、「必然」はすべての者を感動させる力を持っていた。
 われわれはもはや神を持っていない。現代ではすでに神は死んでいる。そして、現代人にとって、「必然」は常識としての「知識」でしかなくなっている。だから、現代人は神話さえも「知識」として頭で知ろうとする。しかし、それでは神話を本当に理解したことにはならない。
 神話を理解するとは、「必然」を自分のものにすることである。「必然」を感じることである。神話作者が発見した「必然」を自分の中で追体験し、自分もまた同じ「必然」を発見することである。そのとき、人は発見者の感動と同じ感動を味わうことになる。
 何も難しいことではない。われわれは芸術作品に接して感動するとき、ほとんど同じことを行っている。頭で芸術を知ろうとする者に、芸術は感動を与えない。自らの全身を作品の中に投げ入れ、作品を含味し、そして自ら発見すること、そのときに、芸術は人間の中にある「必然」の琴線を弾き、人の心を揺り動かして人を大きな感動で包み込む。
 ただし、神話は芸術ではない。芸術はどこまでも疑似「必然」であり、作品によって「必然」に近いか遠いかの差はあっても、どれもが決して「必然」にはなれない。なぜなら、芸術はそれがどれほどの迫真性を備えていても、そこには人間が創り出した「虚構=任意」の部分が必ず入り込むからである。しかし、神話はすべて「天与」の現実を基にし、その現実だけを「必然」の鎖で繋いで「任意」を一切排除する。だから、神話を信じる者にとって、それは「必然」そのものになる。
 芸術は「任意」から出発し、「必然」に迫ろうとする。芸術が目指す「必然」は人間の中にある。
 科学は「事実」から出発し、「必然」を発見しようとする。科学が追究する「必然」は現実世界の中にある。
 そして、神話は「必然」から出発し、「必然」を経て現実に至る。神話が保持する「必然」は人間と世界のすべてに及び、「必然」の側から両者の現実を規定する。
 神話がなぜ「真実の話」として、「聖なる話」として、人々に尊崇され、あまつさえ畏敬の対象にすらなったのかはもうわかるだろう。彼らは神話から「必然」を感じたのだ。自分たちの力を超えた「偉大な力」を感じたのだ。事実としての存在である「自分」をはるかに超越した、普遍的な存在である「神」を感じたのだ。ときに神話が「神の言葉」そのものだとされたのも当然だと言えよう。
 ただ、そうは言っても、ギリシャ神話などの外国の神話からわれわれが「必然」を感じることはまずないだろう。四〇〇〇年前のギリシャの地で当時のギリシャ人が信じていた神話を、現代の日本に住む日本人が彼らと同じように受け取るには、あまりに時代も環境も民族性も異なりすぎている。われわれはそれを「知識」として知ることしかできないだろう。
 それに比べれば、一四〇〇年前の日本の地で当時の日本人が信じていた神話は、われわれにとってはるかに理解し易いはずである。ギリシャ神話と比べれば、時代はずっと近接している。自然環境もそれほど大きくは変わっていないだろう。そして何よりも、われわれは彼らの理性と感性を直接受け継いでいる。理解が不可能だとは思えない。もちろん、たとえ理解できたとしても、われわれが倭人たちと同じ「必然」を感じることはない。それが「必然」ではないことをわれわれは既に知っているからである。しかし、神話に込められた彼らの思いは実感できるだろうし、最高の芸術作品を鑑賞したときに感じるような、ほとんど「必然」に近いものは味わえるだろう。
 ただし、神話を理解しようとするなら、古代人の神話だからといって甘くみてはいけない。どこの国の神話であっても、それはその時代のその国の最高の英知の結晶である。そうでない限り、「真実の話」としてすべての者を信じさせることなど到底できはしない。そして、神話の内容は、現実に対する認識が深ければ深いほど複雑精妙になっている。
 だから、六世紀という比較的遅い時期に成った「倭の神話」は、世界でも例のない「文明国の神話」にまで高まることになる。その整然と組み上げられた体系は高度の論理的思考の産物であり、それが彼ら自身への深い省察と彼らの生きる世界への透徹した洞察とによって裏打ちされている。その上、そこには豊かな想像力が満ち溢れている。われわれにとって、この想像力が神話を理解する上で最も問題である。どう考えても、われわれは彼らほどの想像力を持ち合わせていない。彼らほど鍛えていないからであって、「倭の神話」はその想像力を鍛える最も優れた教材にもなるだろう。
 
  記紀神話の蹂躙
 以上の説明から、本書がなぜ記紀神話を「歴史」として解釈したり、「造作」として切り捨てようとしたりすることに猛然と反発するかを、読者には理解してもらえるだろう。「必然」として創られた神話は、「歴史=事実」として解釈されるときに一段貶められ、「造作=任意」とされるときにさらにもう一段貶められる。
 「造作」説がどれほど記紀神話を踏みにじっているかは、現在の通俗的な「歴史的」解釈の横行を見るだけでわかる。頭の中で作り上げた自分の歴史解釈に合う部分だけを記紀神話から引っ張り出してきて、合わない部分は「造作」と言って切り捨てる。彼の説の正当性はそれで「証明」される。かくして、記紀神話はどんな説でも成立させる万能の書になる。これを記紀神話の蹂躙と言わないで何と言うのか。
 これだけの神話を創り上げるのに、古代人がどれほどの経験と思索を積み重ねてきたかを考えてほしい。それは決して少数の人間が観念的に創作したものではない。幾世紀にもわたる自然との共存の中で、自然の優しさも厳しさもその実体験を通して知り尽くした数多の人々が、自らの思考力と想像力のすべてをかけて生み出し、培い、丹念に磨き上げた珠玉の作品ばかりである。そして、同じ時代に生きたすべての人々のたゆまぬ営為がこの神話の底辺を支えている。神話は古代人の全生活の集約であり、全存在の凝縮である。
 現代のわれわれから見れば、無知による誤解はある。未開だと思えるところも多い。だからといって、それが彼らの全存在を否定する理由にはならない。
 いったい、これまで記紀研究者の幾人が、記紀神話を神話として理解しようとしてきただろうか。安易にその神話性を否定し、自分を一段高い位置に置いて記紀神話を見下してきたのではなかったのか。自分の方が彼らより「進歩」した人間だと考え、頭から彼らを無知蒙昧だと決めてかかっていたのではないか。神話などどうせ愚かな古代人の他愛もない作り話だとしか考えない者に、神話は自らの豊かさを語ろうとはしない。古代人が自分たちの全存在をこの神話に込めたように、われわれもこれを全力で理解しようと努めない限り、神話は決してその神秘の扉を開けてはくれないのだ。
 批判の形式が一般論になってしまったが、ここで念頭に置いたのはすでに故人となっているある特定の人物だけである。読者に無用の誤解を与えたくないので、断っておきたい。現存する研究者はこれからも自らの研究をいくらでも深化させることができる。将来に向かって開かれた無限の可能性を秘めている。現時点までの研究でその人の業績を評価しきめつけることは不可能だし、また、それはその人の可能性に対する冒涜だろう。だが、故人はその研究を発展させる可能性がまったくない。最終業績によって彼の研究は確定し、評価も定まるため、ときにこれが批判の対象にされるのはやむをえないだろう。
 もう一言付け加えるなら、自分が理解できない神話を「造作」と言って切り捨てる態度からは、何の想像力も生まれない。「造作」が多いと主張すればするほど、逆にそれは当人の「想像力の貧困」がいかに深刻かを証明するものに他ならない。われわれは神話を疑う前に、自らを疑うべきである。
 
[詞章の説明]
 
 ずいぶん横道にそれてしまった。話を本来の解説に移そう。
 神話を解釈する際、登場する神々の神格は決定的に重要である。古代人なら間違えるはずがないので、彼らは神々の行動の「必然の連鎖」に想像力を呼び起こされ、大きな感動を受ける。だが、われわれはその神格を知らないので、ややもするとこれを誤解する。すると、そこで必然の鎖は断ち切られ、もはや神話の理解は不可能になってしまう。
 さて、われわれはすでにこの詞章に登場する三神の神格を知っている。それならば、これについて解説することは、読者の想像力をいたずらに狭めることになるのだろう。この詞章は最も長い「必然の連鎖」を持つ詞章の一つであり、また、余計な解説が唯一不要な詞章でもあると思われる。叙述に現代ではもう失われている習俗の反映があるので、すべての意味が明らかになるわけではないだろうが、ぜひ想像力を全開にして、倭人たちが風と雪と山との関係としてどのような思想を抱いていたかを掴み取ってほしい。
 蛇足かもしれないが、この詞章の前には大国主はまだ葦原色許男でしかなかったが、この詞章を経て大国主となった、つまり葦原色許男が大国主になるためにはこの詞章を経なければならなかった、ということを踏まえて読んでほしいとだけ言い添えたい。
 ただし、大国主の神格がはっきりわかっていないと、この詞章の比喩の意味はまず掴めないだろう。まだ少し曖昧なので、ここで整理しておこう。
一 ある特定の山である。
二 おそらく火山である。
三 冠雪を戴く山である。
四 「眉目秀麗」な山である。
 ここまでが前詞章からわかった事柄である。この詞章からさらに次のことがわかる。
五 雪の女神の夫となるにふさわしい山である。
六 ほぼ一年中雪が残る山である。
七 裾野が広がっている山である。
八 「天まで届く」と形容される山である。
 八.は最後の素戔嗚の言葉の宮殿の描写からの推測である。これだけわかれば、その山の具体的な姿をかなり明瞭に思い浮かべることができるだろう。どの山かももう特定できるのかもしれない。だが、確証がない。確証を得るのは第二〇詞章「天稚彦」に至ってからである。


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ねのくに

すせりびめ  かんがたり

すせりびめ

やちほこ

かんがたり

みけし

ひおうぎ

よそ

むな

こ   ふさ

そ  ぬ  う

やまがた   ま     あたたでつ

たであい

そめき       し ころも

こ  よろ

いも みこと

むらとり   わ  む  い

むらどり

とり

ひともとすすき

うなかぶ   な

あさあめ

みこと

かたりごと

みずみず

やちほこ

みこと

おほくにぬし

やちほこ

な       を  いま

み      さきざき

いそ

あ       め

な  き    を 

つま

あやかき

とばり

むしぶすま

たくぶすま

こうぞ

あわゆき

あわゆき

たくづの    ただむき

またまで         ま

ももなが   い    な

とよみき たてまつ

かたりごと  こ

やちほこ      みこと   あ おほくにぬし

あぶみ

すさのおのみこと

じゅうりん

あめわかひこ

あしはらしこお