国譲り神話(第二三詞章「事代主と建御名方」まで)
第一九詞章 天穂日
《出典》『紀』本文。ただし、天孫降臨神話と整合させるために冒頭の三文を削除した。
[詞章の解釈]
新局面
この詞章から「倭の神話」は新局面に入る。前詞章までで現実世界はすべて完成したので、この詞章から続く「国譲り神話」で次の「天孫降臨神話」を導くための条件を整える。「倭の神話」の「国」の思想は第二〇詞章「天稚彦」、「国譲り神話」の位置付けは第二二詞章「国譲り」、「国譲り・天孫降臨神話」の意義は第二四詞章「火瓊瓊杵」、「天孫降臨」の思想は第二五詞章「天孫降臨」の解説で述べるが、この詞章の前半は「天孫降臨」の思想を考える上で、安易に読み過ごせない内容を含んでいると思われる。
天穂日の失敗
天穂日が火星の神格化だろうということは第一〇詞章「二神の誓約」の解説で述べた。天穂日を国譲り交渉の一番手として大国主のもとへ派遣するのは、火星の特徴から構想されたのだと思われる。国譲りの後で大国主を祭る役目を仰せつかっていることとあわせて考えても、星々の中から気まぐれに選ばれたのではないだろう。
だから、この詞章は、火星が他の惑星と異なり、光度を大きく変えること、そして西に沈むと一年以上姿を現さないことの理由付けをしている起源神話だと思われる。神話的に言えば、国譲り交渉の前までは他の惑星と同じような運行をしていたが、大国主に媚びてしまったために現在のように変わったことになる。
「大国主に媚びる」のは光度変化からの着想で、元気のよかったのが、大国主に気押されて意気消沈してしまったということだろう。夜明け前であれば、西に沈むときにはほぼ衝の位置にあるので、最も明るく輝いている。逆に、東から昇るときには最も暗くなっている。そして、高天原にいる間にまた元気を取り戻す。
だが、「三年経っても還ってこなかった」ことをどう解したらいいだろうか。火星の見かけの周期(会合周期)が約二年二ヶ月である以上、三年間姿を現さないことはないと思うのだが、場合によってはそうなることもあるのだろうか。そうでないなら、逆に「三年経っても」の意味を疑うことになる。
『紀』本文は「比及三年」、『記』は「至于三年」となっていて、どちらも「丸々三年間」という意味なのだろうが、語句の微妙な意味になると筆録者の解釈が入り込むことはあるだろう。「三年」は信用できるとして、これは三年目になっても、つまり二年以上経っても、とか、足掛け三年経っても、つまり数えで三年経っても、とか、もともとそういう意味の倭語を筆録者が「丸々三年間」の意味に解したとも考えられる。現代語でも「三年たっても」は曖昧な表現である。
また、「年」が現在と同じ意味なのかも考える必要がある。「一年二倍暦」あるいは「一年三倍暦」で計算しているのかもしれない。ただし、「一年四倍暦」は考慮する必要がないと思われる。
※ 「一年二倍暦」は、現在の一年を古代には二年として計算していたとする説で、初期
の天皇の寿命が軒並み百歳を越していることや『紀』の紀年が歴史上の事実とずれていることを説明するために唱えられている。根拠としては『魏志倭人伝・裴松之注』に「その俗、正歳四節を知らず。但し春耕秋収を計りて年紀と為す」とあるのを挙げるが、この文を「一年を二年として計算していた」と解するのはいかにも苦しく、他にこれといった根拠が見つかっていない。
次詞章には「八年」が出てくるし、第二詞章「国産み」に登場する蛭児が「三年経っても足が立たなかった」という『紀』の記事もあるが、叙述が簡単すぎて、これだけでは神話が生きていた時代の「年」の意味やその数え方を明確にはできそうもない。だが、現在の「年」とは違うようである。
いつから現在の「年」と同じになったのかはわからない。『紀』欽明天皇一四年(西暦五五四年?)二月条に百済が暦博士を貢したという記事はあるが、このときから暦日(元嘉暦)を採用したとは書いていない。『紀』推古天皇一〇年(西暦六〇二年)十月条に百済僧観勒が暦本・天文地理の書・遁甲方術の書を伝え、書生がそれを習ったという記事があるので、あるいはこの後で神話の「年」も死んだのかもしれない(十一世紀の『政事要略』には西暦六〇四年一月に初めて暦日を用いたとある)。
ただし、「夜明け前の祭事」が行われていたのは春耕から秋収までの期間だけであり、冬には行っていなかったとも考えられる。本書が紹介している星座はすべてこの期間のものである。間違いなく冬なのは第一〇詞章「二神の誓約」の星座だけだが、これは夜明け前ではなく、日暮れ後の星座なのかもしれない。天照と素戔嗚が天の川を挟んで対峙する形で、黄道が付近を通り、オリオン座が近くにないといけないので、夜明け前の西の星座か日暮れ後の東の星座のどちらかである。もし日暮れ後なら、「夜明け前の祭事」とは無関係になり、冬の火星は見ないことになる。
その場合、実際より長く姿を現さないので、最長で見積もれば秋に派遣され、一年半後の春まで還ってこない。それでも現在の「年」の計算では一年半にしかならないので、依然として矛盾は解消されない。
ローマ神話では軍神とされている火星が、「倭の神話」ではあまりぱっとしない神になっているようで、その落差が面白い。火星のどういう特徴を重視するかでこれだけの違いが出てくる。古代の倭人が火星をどう捉えていたか、あれこれ想像するのも楽しいものではないだろうか。
大背飯三熊之大人
天穂日の子の大背飯三熊之大人は、叙述が簡単なため、その神格は推測にしかならないが、少し考えてみよう。
地上に遣わしたが、ついに還ってこなかったというからには、現在も地上にいるのだろう。星の神の子で地上にいるのなら、おそらく生物であり、天の使者なので、鳥ではないかと思われる。問題は、「これもまたその父におもねって」をどう解するかである。
『紀』本文は「此亦還順其父」となっているが、これが父である天穂日に媚びたという意味なら、解釈できない。「父に媚びる」が何を意味しているのか考えつかないからである。だが、父と同様に大国主に媚びたという意味なら、解釈はできる。
山の神に媚びたのなら、山に住む鳥だろう。また、星の光度変化を鳥に適用するなら、姿を変えることではなく、色を変えるという意味だと思われる。つまり、大背飯三熊之大人の本体は、羽毛の色を変える山鳥である。そうすると、特定できる。雷鳥である。
山の色に応じて羽の色を変えることを「媚びている」と古代人は捉えたことになる。現代の「保護色」とは別の見方をしていて新鮮な味わいがある。雷鳥を火星の子の地上における実体化だとするのも美しい想像である。
神名の検証をしてみよう。「ソビ」とはかわせみのことだが、実際の鳥の名をそのまま神名に用いているとは考えにくい。また、「オホソビ」なら「大型のかわせみ」なので、現在ならやませみになる。かわせみはブッポウソウ目であり、雷鳥はジュンケイ目なので、現代の分類学とも合わない。「ソビ」の語源にまで遡って考える必要があるのだろう。神名としても使われているのなら、かわせみと雷鳥に共通する、何らかの「天与」の特徴を表す言葉だと思われる。ただし、「ソビ=かわせみ」の「ソ」は上代特殊仮名遣いでは甲類であり、「背」の「ソ」は乙類なので、かわせみとは無関係かもしれない。
「ミクマ」の「クマ」は「隈」だろう。山の奥にいるという意味にとることもできるが、それでは「ミ」の意味が出てこない。むしろ羽毛を三色に変えて山に隠れることを表していると解した方がいいように思える。
神名の印象だけであれば、従来説のように「クマ」を「奠=神に供える米」と解して稲と結び付けることもできる。そればかりか、こじつけようと思えば、何にでも結び付けられる。だから、神名は検証にしか使えない。神話は内容から解釈するものである。
なお、大背飯三熊之大人の話は『記』には載っていないので、この部分は原型成立後の付加だと思われる。雷鳥は日本アルプスにしか生息していないので、本書の解釈が正しいなら、付加地は越中、飛騨、信濃あたりに限定されるだろう。
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