第二五詞章 天孫降臨
《出典》『紀』第一の一書
 
[詞章の解釈]
 
 詞篇が『紀』第一の一書をそのまま採用したのは、これが『紀』の四種類の異伝の中では内容が最も充実しているため、六世紀の最終型だと判断したからである。これを軸にし
て天孫降臨神話の意義を解説する。
『紀』
 第九段
『紀』本文
  T型
第四の一書
  U型
第二の一書
  V型
第一の一書
  W型
『記』
  X型
命令神
 
高皇産霊
 
高皇産霊
 
高皇産霊
天照
天照
 
天照
高皇産霊
真床覆衾 × × ×
神器
 
×
 
×
 
宝鏡
 
御統の玉
八咫鏡
草薙剣
御統の玉
八咫鏡
草薙剣
賜物 × × 稲穂 × ×
随伴神









 
×









 
天忍日
天■津大来目








 
天児屋
太玉
手置帆負
彦狹知
天目一箇
天日鷲
櫛明玉



 
天児屋
太玉
天鈿女
石凝姥
玉祖





 
天児屋
太玉
天鈿女
石凝姥
玉祖
思兼
手力男 
天岩門別
豊受
天忍日
天津久米
神勅  ×  ×  ×  ○  △ 

 表の五種類の中では『記』の内容が最も賑やかだが、異なった伝承を意味がわからないままに取り込んだために、完全に自家撞着を起こしている。一方、『紀』の四種類はすべてそれ自体が完成した神話になっていて、後世の手は一切加えられていないと思われる。他の三種類は最終型以前の形だろうが、どれも合理的に−神話的に、と言うべきか−説明できると考えている。むしろ、この三種類の古型を『紀』が収録してくれたおかげで、本書は天孫降臨神話の意義を解説できると言った方がいい。もし『紀』が第一の一書しか採録していなかったなら、本書は到底その思想の深みにまで到達できなかっただろう。いや、本書の解釈はまだまだ浅いはずである。「倭の神話」の人間についての思想はこの解釈よりもっと深い。それを了解した上で以下の解説を読んでほしい。天孫降臨神話こそ、古代人の思想の精華を示す、「倭の神話」中の圧巻である。
 
  随伴神
 まず随伴神から説明するが、W型以外は随伴神の神格がわからないため、その部分の思想を掴めない。だから、その具体的な意義を説明できない。これだけでも解釈は浅くなってしまうが、その包括的な意義は説明できるだろう。
 随伴神は各氏族の祖神である。第一二詞章「天岩屋」の解説から明らかなように、これに対応する倭王の祖神は北極星の神・天足彦であって、火瓊瓊杵ではない。
 また、随伴神は現在でも天の神として高天原に存在している。地上にいるのは、随伴神が高天原で果たしている役割と同じ役割を地上の儀式で担う人間である。つまり、随伴神の意義は自らの神格を一部の人間に付与することである。だから、随伴神が何神いようとまったく問題ではない。W型は天岩屋神話と同じ星座を見立てて構想され、U型やV型は別の時季の星座を見立てて創られているだけである。
 そして、火瓊瓊杵だけが現に高天原にいない。なぜなら、火瓊瓊杵は地上に降臨したからである。
 天降りをする神で「人間の祖」になる資格を持つのは、天孫・火瓊瓊杵しかいない。火を司る神・火瓊瓊杵の神格はすべての人間がこれを共有する。随伴神の神格は一部の人間だけがこれを受け継ぐ。すべての人間が有する普遍性と個々の人間が持つ個性との両者を同時に説明付けること、それが随伴神の神話的意義である。火瓊瓊杵の血統と倭王の血統が違うのは、だから当然である。
 
  誕生直後の降臨
 次に、生まれたばかりの火瓊瓊杵を降臨させる理由は明白である。人間は誰も降臨した記憶を持っていないからである。起源神話の結果は現実の人間にまで受け継がれる。火瓊瓊杵が成長した後で降臨したなら、人間は高天原の記憶を持って生まれてくる。しかし、人間は生まれるとき、何の記憶も持っていない。だから、火瓊瓊杵は生まれたばかりで降臨しなければならない。
 
  命令神
 命令神が高皇産霊から天照に変わった理由は、二神が役割分担をしているV型を見るとよくわかる。
 V型では、まず高皇産霊がすべての随伴神に勅命を下す。次に天照が宝鏡と稲穂を授け、同時に随伴神(天児屋・太玉)に勅命を下す。前半の高皇産霊の役割がT型、U型と同じ、後半の天照の役割がW型と同じである。
 つまり、T型、U型に天照の役割が付け加わっている。その役割とは、宝鏡と稲穂を授けることである。W型では宝鏡は八咫鏡、稲穂は御統の玉になるわけだが、この二つは有形物なので、無形神である高皇産霊は授けられない。だから、具象神である天照が代わりに授ける。W型ではこれに草薙剣が加わって三種の神器になり、有形物の比重がさらに増すので、勅命を下すのも天照に統合して形をすっきりさせている。ただし、V型やW型が六世紀に創られたものならば、すでに仏教思想の影響で高皇産霊と天照の統合が始まっているのかもしれない。
 
  真床覆衾
 次に、真床覆衾だが、T型とU型では、火瓊瓊杵は高皇産霊が着せた真床覆衾に包まれて降臨する。その真床覆衾は星座の見立てであり、まず間違いなくすばるである。前詞章の解説で述べたように、天孫降臨神話の構想はすばるが金星と食を起こした状態を基にして立てられている。だから、すばるの中央に位置するマイアを火瓊瓊杵に見立て、その周囲を取り巻く五星を真床覆衾に見立てる。星座の見立てなので、高皇産霊が着せることになる。そのすばるがV型では稲穂になるので、高皇産霊は着せられない。このように、すばるは真床覆衾から稲穂、そして御統の玉へと神話の中で進化している。
 三種の神器の一つ、御統の玉の意義は以上の説明でもう十分だろう。『記』のように豊受という穀物神を随伴させる必要は何もない。
 
  八咫鏡とその思想
 八咫鏡は天岩屋神話ではおうし座のアルデバラン(ヒヤデス星団)が見立てられているが、この神格化が知恵の神・思兼である。『記』では八咫鏡と思兼に同じような役割を受け持たせているが、それは『記』が両者の違いを掴めなかったことをよく表している。八咫鏡は有形物、思兼はその星座の神なので、両者はもともと同じ意義を担っている。おうし座のヒヤデス星団が兄・思兼で、同じくおうし座のプレヤデス星団(すばる)が妹・万幡姫である。
 現代的な見地から言えば、八咫鏡に込められた思想が最も深く、最も意義がある。おそらく現代でも十分通用するだろう。
 V型で天照が宝鏡を授けるとき、こう語る。
 「この鏡を見るのに、私を見るのと同じようにせよ。床を同じくし、部屋を共にして、謹み祭る鏡とせよ」。
 日神・天照は伊奘諾が目を洗って生まれた。それは天の目でもある。だから、天照が火瓊瓊杵に鏡を授けるのは、人間に目を付与することである。そして、その目を外向きに付けた。
 人間の目は外向きに付いている。周囲の世界はよく見えるが、自分を見つめることはなかなかできない。
 鏡を見るとき、そこに映るのは何だろうか。それは自分自身である。鏡を見るとき、われわれは自分が何者であるかを知る。「汝自身を知れ」というギリシャのパルテノン神殿に刻まれていた言葉と同じ思想がここで語られている。
 「あなたは知恵を持つ。思慮分別を持つ。その知恵の目は周囲の世界を見るためだけにあるのではない。むしろ自分自身を知るためにこそ、それは必要なのだ。自分が何者であるかを忘れてはならない」。
 天照の言葉はそう語る。そして、それだけではない。
 「自分が何者であるかを知るとき、あなたは天の神をも知る。天命をも知る。その天命を忘れてはならない」。
 天照の言葉はそうも語る。
 天命とはいったい何だろうか。「倭の神話」の人間についての思想は、ここに集約されているように私には思える。
 天の神は気まぐれに天孫・火瓊瓊杵を降臨させたわけではない。それだけの理由があったからである。そうでなければ、誰が生まれたばかりのかわいい孫を手放すだろうか。その、降臨させた理由こそが天命である。また、それは現に今人間がここに存在している理由でもある。
 つまり、天命とは、人間が地上世界に生きている、その「存在理由」である。それは、倭人たちが自分を見つめ、人間を追究した末に見いだした彼ら自身の存在理由の表明に他ならない。
 なぜわれわれはここに存在しているのか。何のために存在しているのか。なぜわれわれはここで生きているのか。生きることにどういう意味があるのか。
 その疑問に対する彼らなりの解答が天命である。
 火瓊瓊杵が降臨する前の国、大国主が治めていた国はどういう国だったろうか。「螢火のように輝く神や蝿のように騒がしい悪い神が多くいる。草木もみなよく物を言う」(『紀』本文)、そして「強暴な悪い神たちがいる」(『紀』第一の一書)、そういう国だった。だからこそ、その国は平定されなければならなかった。
 そして、高天原の最強の使者・武甕槌と経津主がそういう悪神を誅してから、火瓊瓊杵は降臨した。なぜなら、火瓊瓊杵には悪神と戦って勝つだけの力がないからである。火瓊瓊杵自身は弱い神である。倭人たちは自分たちが自然の中でどの程度の大きさなのかをよく知っていた。火瓊瓊杵が強大な力を持っているはずがない。自然の中で最も弱い者、それが生まれたばかりで降臨する天孫・火瓊瓊杵である。
 では、なぜそんなに弱い火瓊瓊杵が国の主になれるのか。
 それは、彼が大国主にはない力を持っているからである。また、国にいる他のどの神も持っていない力があるからである。その力があるからこそ、彼は新たな国の主として降臨する。そして、大国主にはできなかったことをする。それが火瓊瓊杵に課せられた責務である。つまり、それが天命である。それが、現に人間が地上世界に生きている「存在理由」である。
 その具体的な内容こそ「倭の神話」の人間についての思想の眼目なのだろう。だが、記紀神話にはそれが明示されていない。本書でもその推測はしない。本書を読み終えた段階で、読者自身に考えてもらいたい。その上で、天壌無窮の神勅をもう一度読み返してほしい。
 「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、吾が子孫が王となる国である。あなたが行って治めなさい。さあ、行くがいい。宝祚の栄えることは、天地と共に窮まりないだろう」。


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