ミュージカル「ひめゆり」は、太平洋戦争末期の1945年4月〜6月頃のひめゆり学徒隊の話を基にしています。

・ひめゆり学徒隊

 1945年4月、米軍が沖縄への上陸を開始したころ、沖縄にあった21の中等学校(今の高校)の学徒が動員されました。沖縄師範学校女子部および沖縄県立第一高等女学校からは、学徒222人、教師18人が沖縄陸軍病院に動員され、そのうち136人命を落としました。両校から動員された学徒隊を、後に、「ひめゆり学徒隊」と呼ぶようになりました。他の学校からの学徒隊には、「悌梧(でいご)隊」とか「白梅隊」などというのもありました。「ひめゆり」というのは、花の名前の「姫百合」の意味ではなく、師範学校および第一高等女学校の校友誌、「白百合」と「乙姫」を合併して発刊された校友誌「姫百合」に由来します。

 ひめゆり学徒隊は、1945年3月23日、南風原(はえばる)の沖縄陸軍病院に動員されました。陸軍病院は、南風原の丘に穴を掘って作ったもので、ほとんど穴蔵だけの病院でした。学徒隊の病院での仕事は、負傷兵の看護はもちろん、水くみ、食料運搬、死体埋葬な多岐にわたりました。これらは、砲弾のとびかう外部での作業で、常に命の危険を伴うものでした。

 5月下旬、米軍の攻勢が激しくなるに伴い、日本軍は南部地域への撤退を開始しました。5月25日に、陸軍病院にも撤退命令が出され、南部の伊原地域への移動を初めました。この時、一人で歩けない重傷患者には毒薬が渡され置き去りにされました。南部の伊原地域には、沖縄の言葉でガマと呼ばれる自然の壕が多数ありました。ガマには多くの住民が避難していましたが、日本軍によって追い出され、軍や陸軍病院などに取って代わられました。ひめゆり学徒隊も、いくつかのガマに分散することになりました。このころには、もう医療品もほとんどなく、学徒達の仕事も、伝令、水くみ、食料確保等に限定されたものでした。

 6月下旬になると、沖縄守備軍も壊滅状態となります。陸軍病院に対しても、6月18日、解散命令が出され、学徒隊は、壕から追い出され、自分の判断で行動せざるをえない状況となりました。 3月の学徒動員から解散命令までの間のひめゆり学徒隊の犠牲者は19人ですが、命令が出た後の数日間で約100名もの方が亡くなったそうです。

 当時の学校教育では、「生きて虜囚の辱を受けず」の考え方が徹底されており、捕虜になるなら、自決せよとの考え方が支配的でした。そのため、砲弾によって亡くなった他、自ら命を絶った人も多数いました。

 南部撤退後のガマの一つに、伊原第三外科の入っていた壕があります。このガマにはひめゆり学徒隊を含む約100名の人がいましたが、解散命令直後の6月19日に、米軍のガス弾によって、約80名が亡くなりました。この壕の上には、今、犠牲者の方々の慰霊のため、「ひめゆりの塔」が建っています。

 ひめゆりの塔に隣接して、沖縄の悲劇を風化させないために、「ひめゆり平和記念資料館」が設立され、歴史の証言が残されています。

(*)以上の部分で、日付や人数については、ひめゆり平和記念資料館のHPの記述を 使用しました。

ひめゆり

2010.8.15更新