それでも、夜になると、唇に昼間のキスの感触が鮮やかに蘇ってきてしまって。勉強に身が入らないこと、夥しい。

 白昼夢ではなかったのか?感触の残る夢というのも、たまさかあるではないか。

 足もとで焚いている蚊取り線香の匂いが鼻をつく。頼りない木枠の古い網戸の向こうには、星空。澄んだ群青色の夜空。

 振り返って、フスマに一応ついているというだけの、穴にフックを入れるタイプの鍵が閉まっていることを確認して

から、机の引出から手鏡を出し、唇を映してみる。連日、楽器を吹きまくってるから、唇の真ん中だけ妙に腫れていて、

それでいてつやつやと血色は良くて。

 唇の間から、舌を出してみる。ピンク色の舌が余りに生々しくて、思わず手鏡を伏せた。

 唇と舌を、彼が触れた左手の小指でなぞる。

 信じられない。あの美しい手が、唇が、私に触れたなんて。

 それになんだったの?あの心地よい痺れは?

 あの男に触れられているときには、一度も感じたことのない感覚だった。

 一体、彼はどういうつもりで私に触れたのだろう?

 恋心?

 まさか、あんな美しい人が私を好きになることなど、あり得ない。

 ただの性欲?

 それにしては、ロマンチックなキスだけだった。それに、彼ほどの容姿の持ち主なら、相手に不自由することもある

まい。わざわざクラスメートに手を出して、ややこしくする必要も無いだろう。

 …でも、だったら、何故?

 胸が痛くなる。

 それでも、明日も私は彼に会いに文芸部室に行ってしまうのだろう。

 …会いたい。

 

 金管が捕まり、木管とパーカッションは休憩ということになったので、文芸部室に行くことにした。

 早乙女くんは、きっと約束通りいてくれるだろう。

 会いたい。

 でも怖い。

 一夜明けてみると、あのキスは自分の潜在的な願望が見せた夢だったのではないかと、ますます思えるようになって

しまった。

 それに、どんな顔して会えばいいんだ。

 部室のドアを開けると、早乙女くんが昨日と同じ様な姿勢で、本を読んでいて。但し、『極大射程』は下巻になっている。

「こんにちはー」

 他にも2年生の女の子が2人いて、むしろほっとした。

「めずらしいね、どうしたの?」そう訊くと、

「図書館に本借りに来たんです」彼女らが声を揃えて言った。

 夏休み中に文芸部にこんなに集まるのは珍しいこと。きっとこの子達、早乙女くん目当てなんだろう。

「休憩?音がしてるけど」早乙女くんが本を閉じながら言った。

 いつもと変わらぬポーカーフェイス。やっぱり昨日のことは夢だったのではないかと…。

「うん。金管だけ捕まったから、木管はしばらく休んでて良いって」

「じゃ、ちょっと散歩に行こうか」彼はそう言って立ち上がった。

「散歩?」

「うん。少し歩かない?肩こっちゃった」

「いいけど…」

 いいけど、どこに?私も朝から座りっぱなしだから、少し歩きたい気分ではあるけど。

 2年生達は期待に満ちた目で、私たちのやりとりを見ている。

「あ、帰るとき、鍵かけないでくださいね。すぐ帰ってきますから」

 そう声をかけて、彼は先に立って部室を出た。私は慌てて後を追う。

「ねえ、散歩ってどこに?」

 小走りに追いすがる。彼は歩調を落としてちょっと笑って。

「燃え上がる緑の木のあるところ」

 おいおい。

 上履きのまま、北校舎の渡り廊下を降り、そのまま校舎の北側に入っていった。校舎の日陰に入ると、すっと涼しく

なった。

 ああ、なるほど…。

 裏庭は丘のようになっていて、大きなケヤキが3本植えられている。校舎の陰と、欅の木陰で、そこはしっとり涼し

かった。

「涼しいねえ」

「でしょ?」彼はちょっと得意そうに振り向く。「静かに本読めるところ探しててみつけたんだ。人も来ないし」

「穴場だね、気づかなかった」

「それに、音楽室も意外と近いんだぜ」

 彼は上方を指さした。

 確かに、この真上の4階は音楽室。金管の絞られてる音が聞こえてくる。かすかに菅ちゃんの怒声も。ここなら様子が

分かる。

「なんだあ、毎日見下ろしてたのに、こんないい場所だって気づかなかったよ。早乙女くん、よく来てるの?」

「ううん、夏休みに入って剪定されるまでは雑草がすごくて入れなかった。虫も多かったし」

 足下を見ると、刈り整えられたクローバー、オオバコ、エノコログサ、エトセトラ。言われてみて、刈り取られた雑草の

放つ、濃い緑の匂いにも気づく。

 並んで校舎の壁に寄りかかる。壁の向こうはたぶん科学準備室。

 コンクリートの壁が、ひんやりとして気持ちいい。

「昨日」

 彼が口を開いただけで、どきっとする。

「怒られなかった?合奏に遅れて」

「ああ、うん、大丈夫。ちょっと下品な冗談言われたけどね」

「それなら良かった」

 そこでまた言葉が途切れ、下がっていた手が、どちらからともなくつながれる。

 絡み合った指から、昨日と同じ甘美な痺れが立ち上ってくる。

 心臓の鼓動が、早くなってくる。

 彼の顔を見上げることが出来なくて、足下を見つめる。緊張して、何を話していいかもわからない。

「…ヘンかもしれないんだけどさ」早乙女くんがまた口を開いた。照れ気味の、笑いを含んだ口調。「曽根さんに触れ

ると、痺れるんだ。それがさ、なんとも気持ちいい感じで。なんでかな」

 驚いて思わず彼の顔を見上げる。彼は空を見ている。

 この痺れ、私だけが感じていたのではないのか?

「…私も、痺れる。昨日から痺れっぱなし」

 彼も驚いた顔で私を見下ろした。そして、嬉しそうに微笑んで。

「そうなんだ…」

 この心地よい痺れを彼も一緒に感じてくれていたということに、感動する。

 嬉しくて、でもとても切なくて、彼の眼差しもとても優しかったので、彼の肩にそっと頬をつけた。

 彼の肩は、見かけよりたっぷりと厚くて筋肉質で、頬からも、温もりと痺れが立ち上ってきた。 

 溜息を吐く。

 せつないのに幸せ。

 と、彼が急に私を抱きしめた。強い力で、厚い胸に押しつけられる。痛いほどの、腕の力。

「どうして、こんなに…」

 彼の呟きがかすかに聞こえた。

 息が詰まる。心臓が口から飛び出しそうに激しく打っている。何とか自分をセーブしようと彼の肩に顔を押しつけ

るが、上手く行かない。

 どうして、こんなに。抱きしめられただけなのに。

 その時、首筋に彼の唇を感じた。全身がぴくんと跳ねてしまった。腰がくだけそうになり、私も彼の背中に必死に

しがみついた。湿った唇はそのまま移動し、私の唇にたどり着く。昨日より更に大胆に、舌が絡み合う。

 くぐもった喘ぎ声が漏れるのを押さえきれない。閉じた瞼の裏が、真っ赤になる。

 合奏に戻ってから、濡れているのに気づいた。

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樹下の天使2−2