8時に駅で待ち合わせたのだが、10分も早まって着いてしまった。自転車置き場に愛車を停めて、

駅の待合室の、ロータリーの見える席に腰掛ける。

 落ち着かない。

 特にこの服装。着慣れないミニのキャミソール風ワンピースに、七分袖の綿ニットカーディガン、

私にしてはヒールの高い白い華奢なサンダル。少々化粧もしてるし。

 この私としては破格な女っぽい服装は、義姉の見立てである。夏の始めに義姉に勧められて

通販で買ったまま、まだ一度も袖を通していなかった。義姉は、兄と結婚する前、N市の百貨店で

ファッション雑貨を担当していたので、ファッション全般に詳しい。

 露出度高くて、物欲しそうに見えませんかね?

 これは昨夜、衣装合わせをしながらも、ワンピースの裾や胸元が気になって仕方の無かった私の台詞。

 何言ってるのよ、今年はこのくらい普通なの。どうせN市にも水着みたいなの着た子がうじゃうじゃ

いるんだから、美誉ちゃんも頑張らないと、彼氏によそ見されるわよ。

 これは義姉の台詞。

 彼氏っつーわけじゃないんですけどね…。

 弱々しい私の反論。

 でも本当に、彼はどういうつもりで私に接近してきているのだろう?

解らない。

 好きだと言われた訳でもない。つきあってほしいと申し込まれたわけでもない。ただ、キスして、

抱き合って、触れ合って。

…今日は、とにかく図書館に行きたいんだろうけどね。

 良く解らなくたって、私が嬉しがってるのは確かなんだけど。

 彼が、自転車でロータリーを自転車置き場の方に回っていくのが見えた。

 立ち上がり、駅の入り口に出る。

 あ、またどきどきしてきた。

 彼は私の姿を認め、小走りで近づいてきた。

「おはよう、待たせた?」

 爽やかな笑顔。彼は、色あせたストレート・ジーンズに、タンタンの白いTシャツと、とても普通の

服装なのだが、制服しか見たことなかったから、すごく新鮮。肩にかかったエスニックなリ

ュックサックは、本を入れるためだろう。

「ううん、私が早く着いちゃっただけだから…電車8分なの、ちょっと早まっちゃったかも」

「二人で待ってればすぐだよ、入っちゃおう」

 切符を買って、ホームに入った。階段を上るとき、鞄でお尻を隠さずにはいられない。無理な

歩き方をすると、ストラップが切れそうな、華奢なサンダルも気になる。

 それにしても、彼に、私の服装のこと、何も言われなくて、ほっとしたような。がっかりしたような。

 ホームに電車が入ってくる風圧に、またワンピースの裾を押さえてしまった。

 すると、電車に乗り込みながら彼が囁いた。「大丈夫、良く似合ってる。堂々としてなよ」

 思わず立ち止まると、彼が優しく背中を押してくれた。

 電車は在来線なりに混んでいて、一緒に座ることはできなかった。一緒に座れないのなら、いっそ

一緒に立っていたいと思ったのだが、なんせ鈍行では1時間もかかるので、少し離れた席に座った。

 二人とも文庫本を開く。

 時々、顔を上げて彼を眺める。彼は読書に没頭していて目が合うことはなかったが、それでも幸せな

気分になれた。今日は少なくとも彼と1日一緒にいられる。それだけで、いいじゃん、と思う。

理解できないことは、無理に考えなくても、とりあえず今日の幸せを享受しよう。

 N駅を降りると暑かった。

「何読んでたの?」彼と並んで図書館に向かってのんびり歩きながら訊く。

「『ダーティ・ホワイト・ボーイズ』」

「『極大射程』の続きだっけ?」

「うん。でも、話がつながってないんだ。ボブ・スワガーも出てこないし」

「世界が同じだけなのかな?」

「そうでもないらしいんだけどね。シリーズ全部読むと、見えてくるらしいから、それも楽しみだな」

「日本では、『極大射程』より、『ダーティ・ホワイト・ボーイズ』の方が先に出版

されちゃったんだよね」文芸部の誰かが怒っていた。

「そうそう、でも、絶対順番に読んだ方がいいと思うよ。すごい、はまる」

「はまってたよね。電車の中で夢中で読んでたでしょ」

「自分だって。俺が見るたび、食い入るように本読んでて、顔も上げないで」

 なんと、たまたま目が合わなかっただけなのか?

「曽根さんはそんなに夢中で、何読んでたの?」

「『長く孤独な道を行け』」

「あ、ウィンズロウの、ニールのシリーズ?3作目だっけ」

「そうそう。読んだ?」

「1作目だけは読んだけどねえ。なんつーか、主人公がいかにも女受けしそうなキャラクターって

ところが、どうもねえ」

「ニールも、早乙女くんにだけは女受けして気に入らないって、言われたくないと思うなあ」

「あ、ひでぇ、悪かったね」

 彼に軽く頭を小突かれる。

 楽しい!小突かれてるのに笑いが止まらない。

 彼も屈託無く笑っている。

「ニールもねえ、成長して大分ハードボイルドの主人公らしくなってきたよ。歳もとったし」

「そう、ゆで上がってきた?」

「うん、男っぽくなってきた」

「じゃあ、読んでみようかなぁ。2作目から貸してくれる?」

 そんな話をしていると、徒歩15分ほどの図書館はすぐで、入館すると、まず検索端末の使い方を教え、

カードを作り、一旦解散した。本当は自分の本探しはおいといて、彼のそばにいたかったのだが、

探しにくいだろうと。

 本棚に人生が現れることもままあるのだから。

 お昼ちょっと前に、お互い戦利品を抱えて図書館を出た。

「お腹すいたな、何食べる?」まぶしい夏の陽光の下、彼がお腹を押さえながら言った。そんな仕草が、

なんとも可愛い。

「地元の魚介類をふんだんに使ったペスカトーレが売り物の、イタメシ屋はいかがでしょう?」これも

義姉に教えて貰った店を推薦する。私も朝が早かったから、実はお腹ぺこぺこ。

「わあ、それいいね。行こう行こう」

「ちょっと高いんだけどね」

「まあ、良いでしょう。せっかくの初デートですから」

 わあ、デートなのか、やっぱしこれは。しかも、初、ってことは2回目もあるってこと?

 商店街をレストランに向かって歩き出す。

「荷物、持とうか?」彼が手を出す。

「ううん、良いよ、大したことないから。私力持ちだし」

 本当に、本が3冊しか入っていないショルダーバッグはたいして重くなかった。

「じゃあ、手、つなごうか」彼は明るい声で、自然にそう言って。

 汗ばんだ手がつながれる。明るい陽光の下、それでも待ち望んでいた心地よい痺れが感じられる。

 彼と、本と、美味しいランチと。楽しくて、幸せで、とりあえず他には何もいらない、と思える。

全国大会への切符も今はいらない、と思う。

 はき慣れないサンダルがちょっと痛いけど、全然気にならない。

 ふと、気づくと、かなりの人が私たちを振り返っている。主に、彼のことを見ているのだろうが、

女の方は大したことない、とか言われてるんだろうな、と思うと、緊張する。少し背筋を伸ばして、

歩き方に気を使ってみたりする。

 肝心の彼は、他人の視線など気にならない様子で…慣れてるのだろう…屈託無く、初めてのN市の町を

きょろきょろ眺めていた。

 パスタは義姉の言ったとおり、とても美味しくて。イカスミとペスカトーレを頼んで、半分ずつ食べた。

二人とも口の回りが真っ黒になって、そんなのも楽しい。

 ゆっくりランチを食べて、たわいない話をしながら、お茶を飲んだ。

 学校のこと、クラスメートや文芸部員のウワサ、先生方のこと、最近読んだ本…。

 もちろん、彼自身について、山ほど訊きたいことはあるのだが、訊いてはいけないのだと思った。

少なくとも、私が訊いて良い立場なのかどうかということは、不明だから。

 遅い午後、快速電車を待ちがてら、駅前の書店に寄った。

 平積みの新刊コーナーで悩む私を、彼が後ろから覗き込んだ。

「『スプートニクの恋人』?買うの」

「どうしようかな、と思って。村上春樹はだいたい文庫まで我慢してるんだけど、これはそんなに高く

ないし、早く読みたいし…」シックな表紙を掌で撫でる。

「俺、買ったよ。貸そうか?」

 思わず彼を振り仰ぐ。

「村上春樹も好きなんだ…」

 彼はにっこり笑って。「ハードカバーで全部持ってるよ。つくづく趣味が合うね」

 夕方の快速電車は混んでいて、座れなかった。ドアのところによりそって立って、周囲から見えにくい

位置で、そっと指をつなぐ。

「これから、うちに『スプートニクの恋人』、取りに来ない?」

「え、これから、ってご迷惑じゃないの?夕方だし」

「それは全然平気だし、俺もこれから病院行くからちょっとだけだし…うん、うちには早めに来て

おいた方がいいかもよ」

「どういうこと?」

「それは来てのお楽しみ」

 …まあ狭い町だから、どこでどう人間関係がつながっててもおかしくないから、早乙女くんが身を

寄せてる親戚ん家が、うちと商売の関係でもあるのかな?

 彼はいたずらっぽく笑う。

「でも、この格好…」彼の親戚に会うには、ちょっと露出度が高くないかい?

「格好?何が悪いの?」彼は本当に不思議そうな表情をした。

 駅から自転車で10分ほどの彼の家は、古い看板の下がる大きな門構え。敷石には涼しげに打ち水が

してあり、茶色の大きな酒林が下がっている。

 看板には「乙女酒造」とある。

 私は呆然と呟く。「…早乙女くんち、乙女酒造さんだったのか…」

「そう。お袋の兄が継いでる」

 彼はにやにやして私の驚いた顔を見ている。

 乙女酒造といえば、この酒どころの町でもかなりの老舗に入る有名な蔵だ。

老舗っぷりじゃうちも負けないけど、乙女酒造さんのすごいところは、バブル期前から郊外に蔵を

移築して、レストランやミュージアムショップを併設したりと、新しい商売をどんどん試みていることだ。

作る酒も、すっきりさわやかな端麗辛口。看板商品の「月乙女」のラベルも、有名なデザイナーに

頼んで数年前にオシャレなものに変えた。

それに比べて、うちの作る酒は、昔ながらの手作りで、質実剛健なオトーサン方好みの濃厚辛口って

ヤツで…いや、それが悪いってんじゃないけど、そういう蔵も貴重なんだろうけど。

でも、乙女酒造さんに比べると…。

 早乙女だもんな、どうして名前から思い浮かばなかったんだろう…。

 なるほどね…早く挨拶に来た方がいいってのは、こういうことか。

 うちの蔵にとっては商売がたきでもあるけど、酒造は土地全体の産業だから、商売仲間という要素の

方が強いわけで…もちろん、私も乙女酒造の社長には面識がある…と思う。多分。こんなことに

なるなら、もっとちゃんと挨拶して、顔と名前を覚えておけばよかった。

 つくづく田舎は世間が狭いよ。

「裏に回ろう」

 長い板塀を回って、裏口からうっそうと木々の茂る庭に自転車を入れる。

「ここが、俺の住まわせてもらってる離れ」

 黒っぽい小さな蔵。そのそばに自転車を停める。その隣に、黒い原付。

「早乙女くんのバイク?」

「うん」

「うちの学校バイク禁止って、知ってるよね?」

「うんうん、病院いくときに使うからって、許可とったよ」

「ああ、なるほど」

「誰かいると思うから、挨拶だけしとく?」

 母屋の裏口に歩きながら、慌ててカーディガンのボタンを留める。無駄な努力だろうが。

 彼が母屋の勝手口に首を突っ込んだ。「あ、おばあさん、ただいま。友達を連れてきました」

 少しして、上品な紺の紗の着物を来た老婦人がにこにこしながら出てきた。「まあ、晃さん、

珍しいこと。ようこそいらっしゃいました。あらいやだ、裏口からなんて」

「曽根美誉子と申します。早乙女くんにはいつもお世話になってます」私は思いっきり緊張して、

頭を下げた。

「曽根酒造のお嬢さんですよ。クラスメートで、文芸部にも誘ってくれたんです」

 早乙女くんが紹介してくれる。

「まあまあ、いつも晃がお世話になってます。そう、曽根酒造さんのね、妹さんね。去年の

お兄さんの結婚式には、うちの社長がお招き頂きましてありがとうございました。ご立派なお式

だったそうで」

「わ、そうでしたか、ありがとうございました」わあ、やっぱり覚えてない。去年秋の兄貴の結婚式

では、私は新郎の妹という雑用係で、振り袖で走り回っていただけだった…。

「さ、お入りなさい、ちょうどケーキ頂いたんですよ」

「あ、おばあさん、本貸すのに寄って貰っただけですから、お茶はまた今度にして下さい。夕方ですし」

 早乙女くんが礼儀正しく断ってくれて、正直ちょっとほっとした。

「そう?そうね、じゃあ、離れで二人でお食べなさいな」おばあさんは一回台所に引っ込むと、

大きなケーキの箱を持ってきた。

「全部食べても良いんですよ、こっちの分は少し除けましたから」

「はい、頂きます」彼は苦笑して。

「じゃ、曽根さん、行こうか」

「あ、はい…失礼します、ごめん下さい」

 一礼して、慌てて彼を追いかける私の背中に、おばあさんが声をかけた。

「美誉子さん」

 振り返る。

 おばあさんは、勝手口に立ちつくして。

「晃を…よろしくお願いします」

 私は小さな声で「はい」と答え、また一礼して走って彼を追いかけた。

 外装は黒っぽい離れの中は、まるで洋室のようなマホガニー色の空間だった。

 狭い玄関を入って、彼の開けてくれた正面の重たい引き戸をくぐると。

「わあ…」

 入ってすぐの広い壁面が、びっしりと本に埋め尽くされていた。「洋書!こんなにたくさん。

早乙女くん、読むの?」

 となりのキッチンらしい部屋から、彼が答える。「お袋の。翻訳の仕事やってるから」

「そうかあ、お母さん翻訳家かあ」

 なるほど、それなら色々想像と納得ができるというものだ。彼が英語に堪能なのも、混血らしいのも。

 背表紙を眺めると、洋書は全体の半分くらいを占め、殆どが英語。キングやクーンツのペーパーバック

から、OEDのような事典まで。フランス語やドイツ語の辞書も散見される。

 彼が、ケーキと、ポットを持って奥から出てきた。キッチンがあるらしい。

「ケーキ食べよう。紅茶でいいよね」

「うん。何でも。お構いなく」

 本棚と揃いの美しい木目のシンプルなダイニングセットの低めのベンチに腰掛ける。

 彼はサイドボードから、ノリタケらしいティーセットを出す。ティーポットにお湯が注がれ、

良い香りが漂う。

「ケーキどれがいい?」 

 箱を覗き込むと、10個ほどの小振りなケーキ。

「あ、ここのケーキ美味しいんだよ…パイ系が特に」

 N市にある、パイを得意とするちょっと有名なケーキ屋のものだった。義姉が里帰りしたとき、

買ってきてくれる。

「たくさん食べて良いよ」

「え、夕飯食べられなくなるとマズイんだ、うち」義姉がすねる。

 しばし迷ったあげく、桃のタルトを選んだ。彼はブルーベリーパイ。

 彼は優雅な仕草で、濃いめの紅茶を、独特のブルーの模様のカップにそそいでくれる。

 こういう環境、彼にめちゃくちゃ似合う。背景は洋書、上品な茶器、香り高い紅茶。うっとり。

紅茶を一口。

「美味しい」呟いてしまう。

 彼も一口啜って。「ケーキ、残り持って帰ってね。ここんち食べる人いないから」

「若い人いないんだっけ?子どもさんいたような気がしてたけど」

「従兄弟達は、みんな独立しちゃった。長兄はN市で教員してるし、姉は東京で所帯持ったし、

次兄は大学出て今年からイギリスに留学中」

「ああ、みなさんそんなに大きいんだっけ」

 そういや、一番上のお兄さんはうちの兄貴と同級くらいだったような。

 話をしながらも、つい部屋のあちこちに目が行ってしまう私に、彼は、

「ねえ、この離れって、不思議じゃない?」

「うん、不思議」蔵座敷なのに、内装は洋風。

「先先代の当主が、自分の隠居所として道楽で改装したんだってさ。昔は米蔵だったらしい。倉庫と

工場を郊外に持っていったとき、改装したんだって。和室の離れは別にちゃんとあるのにね。従兄弟達が

いたときは、子供部屋として使ってたんだって。それを、俺達母子が入れるように再改装してくれて」

 彼は少し言葉を切って。

 私は甘酸っぱい桃を食べながら、次の言葉を黙って待つ。

 彼自身のことを話してくれそうな予感に、不謹慎にも胸が高鳴る。

「…俺のお袋のこと、どこまで知ってる?」彼が紅茶のカップを見つめたまま言った。

 私は正直に話した。菅ちゃんのお見舞いに行って、彼とお母さんを見かけたこと。菅ちゃんから

聞いたこと。

「そっか。気が付かなかったなあ。病院で会ってたなんて」

「うん。転校したての頃だったもんね。私たち制服じゃなかったし」車襞のスカートは一応はいて

いたが、上着はうっとうしい古風なセーラーではなく、ポロシャツにニットのベストかなんかを着て

いただけだったと思う。

「病状については何か噂になってるのかな?」

「そうでもないと思う。少なくとも私は知らない」

「そっか…お袋さ、ガンなんだ。末期の」彼はさらりと言った。「最初は中期の乳ガンで、3年前の

手術は成功したんだけど、その後あちこち転移してるのが見つかって、そっちはもう手遅れで。東京で

入院して、しばらくは頑張ってたんだけど、俺ひとりじゃもう限界で、学校にも段々行けなくなって

きちゃって、それで、ここんちを頼ってきたんだ」

「そう…すごい、大変だったんだね」

 彼の表情はおだやかなままだが、私の胸はきりきりと痛んだ。

「もう、時間の問題なんだけどさ…最後は故郷で、家族に囲まれてってのもあるだろ」

「ダメなの?」

「うん。ダメなの。奇跡も期待できない状態。順調に悪化している」

 私は何も言えなくなる。

 こんなに淡々と話せるようになるまで、彼の中にはどれだけの苦しみと葛藤があったのだろう。

 涙腺が熱くなる。

「俺の弁当」彼が突然言った。

「は?」

「弁当毎日すっげえ豪華だろ」

「ああ、うんうん」

「あれ、毎朝おばあさんが作ってくれてるんだよな。夏場は大変だから良いって言うのにさ」

「作って上げたいんじゃないのかな…可愛い孫だもん。だって、おばあさんと一緒に住むの初めて

なんでしょ」

「ああ、それはもちろん…お袋、この家、勘当同然で飛び出したから」

「どうして?」

「留学に反対されて」

「へえ…なるほど。留学って、どこに?」

 翻訳家…留学…その先で彼の父親と知り合ったのだろうか?

「アメリカ。ボストン」

「ふうん…そっか、お母さん達の年代じゃ、女性が留学って大変なことだっただろうからね」

「そうだろうな…お婆さんはともかく、じい様がすっげえ勢いで反対したらしい」

 そこで、彼の表情がちょっと変わった。終始穏やかに話していたのに、かすかに動揺が現れた。

「…じい様がさ」震える唇。

「ん、おじいさんが?」

「いないんだよ、家に。俺がここんちに来てからというもの、旅行ばっかり行ってて。水彩が趣味

だから、引退後は夏場はいないことが多いんだってみんな言うんだけど…俺の顔を見たくないんじゃ

ないかと思って」

「そんなぁ」

「思い出すだろ。俺の顔見ると。大事な娘が家を飛び出して、アメリカくんだりまで行っちゃって、

ついには混血の子供を産んだということをさ」

「…やっぱりハーフなんだね」

「うん…父親はアメリカ人で…お袋が留学を終えて、アメリカ企業の東京の支社に通訳件秘書として

勤めるようになって…そこのボス。でも、そのボスにはアメリカに妻子があって…お袋は現地妻のような

立場で俺を生み育てたと」そこで彼はひきつった笑みを浮かべて。「良くある話だろ」

「…そ、そんなに無いと思うけど…でもね、おじいさんの件は、考えすぎだと思うよ。だって、お母さん

だけじゃなく、早乙女くんも受け入れてくれたんでしょ。こんなに蔵座敷も綺麗に改装してくれて、

ご飯だって食べさせてくれて、学校だって行かせてくれて、絶対、顔を見たくないなんてことはないと

思う。そりゃあちょっと意地はってるようなことはあるかもしれないけど、年寄りってプライド高いし

頑固だから。うちのじーちゃんもそうなんだけど、昔の怒りを水に流すのが恥ずかしいのね」

 私は何故か、彼のおじいさんの弁護を必死で口走っていた。

「…ありがとう」彼は笑って言った。「やだな、暗い話しちゃった。なんか、曽根さんには

べらべらしゃべっちゃうなあ。ごめんね」

「ううん、全然。早乙女くんのこと、知りたいと思ってるから話してくれて、嬉しい」

「そう思ってくれるの?」

「当たり前じゃない、す…」

 好きなんだから。と続けそうになって、慌てて口を噤んだ。

 ごまかしようも無く、気まずい沈黙が過ぎる。

 …しまった。

「紅茶、お代わりする?」彼が静かに言った。

「うん…ありがとう」

 彼がポットに湯を注ぎながら言った。「夜中になると、個人的な話したくならない?」

「ああ、そうだね、修学旅行とか合宿ってどうしても告白大会になるよね」

「夜も、来ない?」

 彼が言った。

「は?」

「夜中、抜け出せない?暗くならないと、話せないこともあるから」

 彼の表情は相変わらず穏やかで、捕らえどころが無くて。

 それでも私は理解し、きっぱりと言った。

「出られると、思う」

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樹下の天使2−4