家族がそれぞれ自室に引き取ったのを確認して、私は楽器と蚊取り器を持って、母屋の裏手にある、

今は物置としてしか使われていない古い蔵に入った。この蔵からは、早乙女くんと待ち合わせた裏門が

見えるのだ。

 蔵と言っても、早乙女家の蔵座敷とは大違い。うちの蔵は酒造として稼働している棟もあるが、ここは

全くもって物置。去年のコンクール前からここで個人練習をしはじめたのだが、楽器練習スペースを

確保するのに半日かかった。

 一応楽器を出してスケール練習などはしてみるが、もちろん身は入らない。夜中に楽器を持って蔵に

こもるのは良くあることなので、家族に聴かれても構わないのだが、それでも今夜は誰にも私に注目して

ほしくないので、音量も控えめになる。

 2階の、わけのわからない古いがらくたの隙間の窓から、裏門を覗く。門灯に照らされたそこには、

羽虫が群がっているのが見えるだけ。

 窓のそばで立ったまま楽器を吹きながら、ぼんやりと考える。

 抱かれることになるのだろうと思う。夜中に来て欲しいというのは、そういうことだろう。

 抱かれたいと思う。彼のことを思うだけで、触れ合った時の甘美な痺れが鮮やかに蘇る。

 キスしただけで、抱き合っただけで、あんなに融けてしまいそうになるのだから、実際セックスしたら

どんなにステキだろう。

 これって、単なる性欲?

 それならそれで構わない。積極的に男性に触れたいなんて思ったの、何年ぶりだろう?

 …いや、初めてかもしれない。

 けれど、不安もある。無事に、抱かれることが出来るのだろうか?いざというときに思い出してしまって、

彼を傷つけることになりはしないか?

 それだけは、したくない…もうすでに、彼はお母さんのことでボロボロに傷ついている。その彼を

これ以上傷つけたくない―――

 それでも、どこかで確信している。彼なら大丈夫、優しい時間を過ごすことができる、と。

 手を握られても、キスしても、何も思い出すことはなかった。その最中はただ彼しかそこにはいなくて。

 動悸が早くなってきて、楽器から口を離した。

 期待と、緊張。

 全身念入りに洗ったし、むだ毛の始末もしたし、下着も新しめの上下揃いのサックス・ブルーの

シンプルなものを着けた。夜中なのに下着に合わせ、小さなラピズラズリのピアスも着けている。ただ、

物欲しそうになるのは嫌なので、Tシャツとジーパンという服装にしたけど。

 と、門灯の光の輪の中に、彼が突然自転車に乗って現れた。腕時計を見ると、まだ約束の11時より

10分ほど早い。

 手早く楽器を片づけ、ネズミにかじられないように、戦前からあったのではないかという感じの帆布で

しっかりくるみ、入り口の脇に置く。ウィンズロウの文庫本をジーンズのヒップポケットにねじ込む。

外に出るとき、重い鉄扉がきしんでどきどきしたが、母屋が静かなことを確かめて、予めかんぬきを

開けてあった裏門から外に出た。

 彼が顔回りの虫を払いながら、びっくりした表情で私を見た。

 色の褪せたダンガリ・シャツと、カット・オフのジーパンの彼は、とても涼しげ。

 彼は、次の瞬間笑いながら、小さな声で。「早かったね」

「早く行こう」家族が起きてくるのではないかと、私は彼に駆け寄ってせかした。

「そうだね、乗って」

 彼の肩に手をかけ、自転車の後輪の足のせに立ち乗りする。

「行くよ」

 自転車はたんぼのあぜ道を走り出した。

 風を切って走る感じは気持ちいいのだが、この上背のせいで、目撃されたら私だと解ってしまうだろうな、

と思わず背中が丸くなる。

 早乙女家のうっそうとした庭は、昼間と印象が違う。さくさくと下草を踏む音に緊張する。

 彼が、離れの鍵をかけた音が、嫌に大きく響いた。

 彼はまっすぐキッチンに入っていき、私はリビングの本棚を眺める振りをしたが、もちろんちっとも

読めてはいない。

「ビール飲むでしょ」彼が両手に缶ビールを持って、キッチンから出てきた。

 いつもの通りの笑顔で、いつものとおりの穏やかな声で。

「それとも、蔵元のお嬢様は、ビールなんて飲まない?」

「頂きますわよ」

「この部屋、母屋から灯りが見えるから、こっちで良いかな?」

 そういって彼はリビングに続くドアを開け、入り口脇にある電灯のスイッチを点けた。その部屋は

彼の寝室だった。私は、入り口で思わず立ち止まった。

 こちらの壁は蔵のしっくいがむきだしだった。部屋の半分をアンティークっぽいセミダブルのベッドが

占め、アースカラーのキルトのカバーがきちんとかけられている。ベッドと揃いのデスクの上には

ノートパソコンと教科書類が整然と乗っている。クローゼットの扉にはきちんとアイロンがかけられた

Yシャツがかかってるだけ。

 なんか、生活臭の無い部屋。ヨーロッパの下宿かホテルのような…って、行ったことはないんだけどさ。

 それでも、少しだけ、男の子の匂い。

 入り口で躊躇している私を見て、彼はリビングの灯りを消すと、するりと寝室に入り、ベッド脇の背の

高いスタンド・ライトを点け、それからベッドの上にいくつか置かれていたクッションをフローリングの

床にぽんぽんと落とした。

「どうぞ、床で悪いけど」

 ほっとした気分で、ベッドによりかかかるように床のクッションに座った。

 座ると、ヒップポケットの本を思い出した。

「はい」引っぱり出して彼に渡す。

「何だっけ?」

「ウィンズロウ」

「あ、そっか、忘れてたありがとう」

「せっかく持ってきたのに」

「ごめんごめん」

 彼は天井の灯りを消し、部屋の中はオレンジ色の間接照明にやわらかく照らされるだけになった。

 ビールを、彼がプルタブを開けて、渡してくれた。

 冷たい。

「乾杯しようか?」優しい笑顔に、緊張が少しずつほぐれていく。

「何に?」

「二人の夜に、ってところでしょうか」彼が笑って言う。

 缶を軽く触れ合わせ、ぐっとビールを喉に流し込む。乾いた喉に冷たくて、美味しい。

「曽根さん、強そうだね」

 私の飲みっぷりを見て、彼が言った。

「そりゃもう、お育ちが違いますから。際限ないです。早乙女くんは?」

「そこそこ飲めるけど、すぐ赤くなるんだよな。そういうところは日本人なんだから、嫌んなる」

「そうなんだ。色白だから、目立ちそうだね」

「そう、真っ赤になっちゃって、恥ずかしい。曽根さんは、顔に出ないの?」

「全然出ないの。結構酔っぱらってるのに、顔は素面で、よく見ると目だけ座ってる、みたいな」

 彼がおかしそうに笑ったので、私も嬉しくなって笑った。

「ありがとう。本当に来てくれて」彼がちょっと真顔になって言った。

「来ないと思ってた?」

「来てくれるとは思ってたけど…うーんと、九割五分くらいはね。あとの五分ちょっと不安だった」

「きますよぉ。だって」だって、早乙女くんに抱かれたいから…「だって、話聞きたいもん」

「そっか…」

 彼は残りのビールを飲み干して、立ち上がった。

「もう1本、飲む?」

「あ、うん。ありがとう」

 私のはもう少し残っていたが、頷いた。

 飲まないと、話せないのだろう。

 キッチンから冷蔵庫を開ける音が聞こえる。

 開け放たれた小さな窓から、夏の終わりの涼しい風が吹き込み、重そうな深緑色のカーテンを揺らす。

 残りのビールをぐっと飲み干す。

 彼が戻ってきて、今度は蓋を開けずにビールを渡してくれた。

「さて…と」彼は私の隣に座り直して、2本目のビールを開け。「何からどこまで話そうかな」

 ちょっとだけ、端正な眉が辛そうに歪んだので、私は慌てて言った。「別にいいんだよ、無理に

話さなくても。話したくないなら、全然構わない。私は、こうして、早乙女くんといられるだけで

…楽しいから」

 彼が私を真っ正面から見つめた。間接照明で濃く陰影のついた彼の顔は、一段と美しくて夢のようで、

胸が痛くなる。

 こんなに間近でこの美しい顔を見られるなんて、1ヶ月前には思いもしなかった。

「そう、思ってくれる?」

「うん…」

 耐えられなくなって、私は目をそらした。強い視線。せつない。

 彼は、ぐっとビールの缶を傾けて。「でも、昼間の続き、ちょっとだけ聞いてもらおうかな」

 私は膝を抱え、彼の低く柔らかな声に耳を澄ます。

「お袋が、アメリカ人の妾だって、話しただろ」

 自分の母親を妾と言い切ってしまう、その寂しさ。

「うん…」

「俺はあんまり覚えてないんだけど、3歳くらいまでは親父も日本にいることが多くて、ほとんど

一緒に暮らしてたらしいんだな」

「うん」

「でも、そのあとアメリカの本社に呼び戻されて…でも、日本関係の仕事はしていたから、

小学校くらいまでは一年のうち二、三ヶ月は一緒に暮らしてたんだけど」

「ふうん」

「でも、出世に従って段々日本にくる機会が減って…まあ、アメリカの家族との間にも色々あった

らしくて、中学校の頃にはもう、年に数回数日ずつ、って感じで、ここ2,3年はほとんどこないし。

生活費はずっと送られてきてるけど。お袋の仕事だけでも、何とか暮らしていけたとは思うんだけどね」

「そうだったんだ…」

 まぬけな相づちしか打てない自分が情けないけど、下手に口を挟むよりマシって気がする。だって、

彼の苦労を、私のような甘チャンが実感できるはずもない…。

「まあ、俺は物心ついたときから自分の家は友達の家と違う、って解ってて、しかもずっと都会で

暮らしてたから、いろんな事情の家庭が周りにもたくさんあって、だからこんなもんだ、って小さい頃

から思ってた。でも、お袋は辛かったと思うんだな。段々親父が遠ざかっていくの」

「そうだねえ…」

 私も2本目のビールを開けた。

「そのうち病気になって…お袋は報せるなって、言ったんだけど、俺、親父に手紙を書いたんだ。お袋の

ガンが再発したとき。その頃は、抗ガン剤で抑えれば、あと何年も大丈夫だと思ってたから、そんなに

深刻な内容で書かなかったのが悪いのかもしれないけど、親父、結局こなくて…銀行に治療費だけ、

振り込まれててさ。お袋に言えなくて…手紙書いたのに、本人は来なくて、お金だけ、なんてさ。

そのお金、お袋に見られる前に、こっそり別の口座に移したよ」

「ああ…うん…そうしたくなっちゃう…よね」

「たぶん、なんだけど、父親に病気を知らせるなって言ってたわけ、お袋、乳房、片方全摘したんだ。

中期だったから。その姿を親父に見せたくないってのも…あるのかもしれないって」

「そうかぁ…」思わず、自分のなけなしの胸に手を当てる。

「だからさ、親父がそういうつもりならいいさ、今までだって二人だった…って、開き直ってがんばって

きたんだけど、お袋の具合が悪くなるにつれ、もう、俺一人じゃ限界で…学校と、家事と、病院と

…それで、東京のマンション処分して、ここんち頼ってきたわけ」

「すっごい大変だったんだね」

「なのに」彼の口調が突然強くなって、どきっとする。

「今更会いたいって言うんだ…親父に」

 彼も膝を抱え、膝の上に顎を載せている。紅潮した頬。うつむいた眼差しが、鋭い。

「お母さんが…お父さんに会いたいって…言うの?」

「言うんだ…寝言でまで…」彼は目を閉じる。「俺達はあの男にとって、もう大切ではないって、

どうして解らないんだろう?」

 血を吐くような呟き。

 私まで痛みを感じるほど辛くなる。

 耳が痛くなるような沈黙が数秒流れて、彼がふっと顔を起こした。

「もう少し、強い酒、飲もうか」

「もう、やめなよ…顔、赤くなってきてる」

 私は膝をついたまま、彼の頭を自分の胸に抱え込んだ。

 自然な動作だった。抱きしめずにはいられなかった。

 深く深く傷ついた彼を、癒してあげたいと心から思った。私なんかに癒せる傷なのかどうか

解らないけど。

「曽根さん…あったかいね…」彼が私の胸に顔を埋めたまま、囁いた。

「大変だったね…」私はそれしか言えなくて、彼のさらりとした細い髪に唇を着けた。シトラス系の

シャンプーの匂いがした。

 彼の腕が私の腰に回り、そのままベッドに抱き上げられた。ふわりと横たえられ、

声を上げる間もなく、唇が塞がれた。

 舌が絡み合い、唾液が混じり合う。繊細な指先が、私の顔の輪郭をなぞる。

 全身を一気に甘美な痺れが覆い、動けなくなる。

「…いいよね?」唇を触れ合わせたまま、彼が囁いた。

 私はもう、かすかに頷くことしか出来なかった。


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3章 夏祭り

樹下の天使3−1