まだ二十世紀が数年残っていたその初夏、私は高校三年生の十七歳で、受験生だった。しかし受験生
とはいえ、脳メモリの大部分は英単語や年号や公式ではなく、音楽と文学に占められていた。
その不徹底な受験生ぶりは私だけに限ったことではなく、周囲のクラスメートたちも五十歩百歩といった
様子だった。
私の母校は田舎の県立とはいえそれなりの進学校ではあるから、もちろん熱心な一部の生徒たちはすでに
かなり本気モードで勉強を始めていたし、その姿は私のようなのんき者を焦らせるにも充分だった。
しかし、運動部に所属する者は、まだ最後の夏の大会を残していたし、それは彼等にとって高校生活
最後の大会になるわけだから、半年も先の受験より、目先の試合にに専念したくなるのは当たり前と
いうもの。
私は運動部ではなく、吹奏楽部に所属していたが、運動部と同じように夏休みにはコンクールを控えて
いたので、熱心運動部員ほどには、受験には不熱心だっただろう。
それに加え、子供の頃から重度の活字中毒だった私は、いつも読みかけの本を抱えていて、高校時代は
和洋問わずミステリ小説に夢中だった。更に文芸部も掛け持ちし、いずれおとらぬマニア達と文芸談義を
交わすのを楽しんでいた。
私の脳メモリの50%ほどは音楽に、30%ほどは文学に、残りの20%ほどは受験に、それぞれ目一杯
使用されていた。
空き容量無し。
夢中になれるものがあるというのは、幸いだ。
余計なことを考えずに済む。
自分の在り方や生き方、そういう深刻なことについては、深く考えないようにした方が生きやすい
場合もあると、そう知ったのも高校生の時だったような気がする。
いつかそのツケが回ってくるかもと予感してはいても。
家族をはじめ周囲の人々には、私は充実した青春を送っているように見えただろう。私自身、かなり
理想的健康的な高校生であると、そう思っていた。
しかし、私の中には固い殻をかぶった部分が確固とあって、それは他人には絶対見えないように、
そして私自身にも見えないように、強固にガードされていた。
思春期の終わりってそんなものかもしれない。私に限ったことではないかもしれない。誰しも、内に
秘密を宿してしまう時期。
彼が私の前に現れたのは、そんな季節だった。
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申し訳ないとは思ったのだけれど、見つめずにはいられなかった。
その転校生は一瞥して目を逸らすには、余りに綺麗だった。
「早乙女晃(こう)です。よろしくお願いします」
落ち着いた低い声で彼は名乗った。
長めの栗色の髪が開け放たれた窓からの風になびく。同じ色の、涼しげでそれでいて形の良い大きな目。
全体に色素が薄い。髪と目の色が薄いし、肌も白い。意志の強そうな、薄い唇。すっきりと鼻筋が通り、
彫りが深い。すらりとしたプロポーションは華奢ではあるが、見事に均整が取れている。ハーフ
なんだろうか?
純日本人とは思えない。別世界のような美しさ。彼のいるその周辺だけ、非現実的。
なんてことだ、急に転校生が入ると、しかも男子、と聞いて期待もしていたが、これほどの美少年とは。
彼の次の言葉を待って、教室中が固唾を飲んだが、教壇上の転校生は口をつぐみ、まっすぐ前方を
見つめるだけ。妙な沈黙が教室中に沁み渡るように広がった。
慌てて、担任が禿頭をつるりと撫でてから、口を開いた。「ええと、じゃあ早乙女くん、その廊下側の
一番後ろの席について下さい。高橋くん、彼も理系だからよろしくね」
転校生はこくりと頷くと、静かな身のこなしで通路をこちらへ歩いてきた。目で追ってしまわずには
いられない…そばを通るときに目測すると、私よりも少し背が高いようだ。175cmくらいか?と、考えて
しまってから、まずは身長をチェックしまう自分の浅ましさにぎくりとした。慌てて回りを見回すと、
呆然と彼に見入っていたのは私だけではなく、女子だけでもなかったので、ほっとして、傷だらけの
机の上に目を落とした。
転校生は私の斜め後ろの席につき、「よろしくお願いします」と小声で言った。
「こちらこそ。俺、高橋大地っていうし。理系だったら授業もたいがい同じと思うし、何でも言って
くれよ」
高橋が私の真後ろで、嬉しそうに答えている。高橋はおせっかいなほど面倒見のイイ奴なので、転校生を
任せるには適任と言えるだろう。
背中がむずむずする。振り返りたいのに、振り返れない。美貌に凍ってしまいそうな気がして。
その後手早く諸連絡などを行い、朝のホームルームは終わった。チャイムが鳴り、教室中我に帰った
ようにばたばたと一時間目の選択科目の教室移動の準備を始める。転校生も高橋と連れだって、移動して
いった。
「ねえねえ、びっくりしたねえ。すっげえ綺麗な男の子じゃん」隣の席の聡子が、上気した顔で話しかけて
きた。
「そうだね、驚いた。ハーフかね」
「そうだよねえ、きっと。東京から来たんでしょ、なんか垢抜けてるしさあ」
「そうだねえ…ねえ、あんた、移動じゃないの?」
「あ、そうか、ミヨは移動ないのか、しまった」
聡子はばたばたと教室を出ていき、私は鞄から一時間目の日本史の教科書を引っぱり出した。
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昼休み、職員室で質問していたら遅くなってしまい、売店のパン争奪戦にあぶれた。古くて貧乏な
県立高校には学食とかいうしゃれたものは存在せず、こういう日に限って弁当も作ってもらえなかった
から、自転車を出して近所のコンビニまで走った。
やっと残り物のおにぎりをゲットして教室に戻ってくると、私の席のあたりに人だかりができていた。
どうやら転校生の記者会見が開かれているらしい。
教室中が嫌に静かだし。たかっていないクラスメート達も、耳だけは完全にそちらに向いて
いるのだろう。
人だかりを押しのけてまで自分の席に着くほどのずうずうしさも元気もないので、窓際の空いている
席で、コンビニの袋を開く。
耳は極力ダンボにして。
記者会見を主に仕切っているのは、高橋と聡子のようだった。
聡子、もう仲良くなったんかい?
「へえ、じゃあ今までは私立の男子校だったんだ」
聡子の声。
「うん、中高一貫だったから、共学は小学校以来で緊張してます」
転校生の言いぐさに人だかりがちょっと沸く。
「部活は何かやってた?」
「一応水泳部。最近はサボってましたけど」
「趣味は?」
「読書…ですけど、趣味ってほどじゃないかな、単なる活字中毒かも」
思わず手が止まる。彼がどんな本を読むのか、気になった。
「それなら、この学校の図書室、いいぜ。県内の高校で蔵書数一番多いんだってよ」高橋が言う。「あとで
案内してやるよ」
図書室なら私の方が絶対詳しい。去年は図書委員だったし。高橋のような体育会脳味噌筋肉男よりも
適切に案内できる。と思うが、それを自ら申し出るなどということ、できるはずもない。
「東京のどの辺に住んでたの?」
「青山のあたり」
「へえ、都会じゃん!おしゃれだあ」
「そんなでもないんです、表通りから一本入ると、結構古いマンションとか並んでるんですよ」
へえ、正に東京者なんだなあ、と、私は相変わらず聞かないふりのまま感想を抱く。
「3年のこんな中途半端な時期に転校なんて、試験とか大変じゃなかった?」
「ええ、でも、学年上がるときに退学者が出たから比較的入りやすかったって」
まあ確かにそうだけど、でも、一応田舎とはいえ学区随一の進学校に編入できたということは、デキる
ことは確かなのだろう。
質問が続く。
「どうして、引っ越してきたの。お父さんのお仕事の都合か何か?」
「いや、家の都合で」
おや、口調が変わった?
ここまでは遠慮会釈ない質問に丁寧に気持ちよく即答していたのに、突然きっぱりと拒否したような。
声が、堅い。
反射的に転校生の顔を覗き込むと、人垣の隙間から見える美貌には変わらず微笑を浮かべてはいたのだ
けれど、目が怖いほどに無表情。よっぽど触れられたくない話題なんだろうか。
それに高橋も気づいたのか、慌てて話を逸らしたのが、端で見ていてもわかった。
「水泳以外にスポーツなんかする?」
「特にこれと言って…走るのは好きですね。主に水泳のトレーニングとしてですけど」
転校生の口調がまた柔らかくなった。
「野球とサッカーだったらどっち好き?」
「サッカーかな。走り回ってる方が好きですから」
「丁度いいや、午後の体育サッカーだぜ」
話題は更衣室や、体育着のことに移り。 私の耳からは、一瞬だけ聞こえた転校生の固い声が
離れなかった。
何かあるんだ、きっと。彼の転校には、一瞬、拒否反応を見せてしまうほどの何か深刻な理由が。
…ま、聞かないけどさ。私には関係ないし。
ゴミを丸めてゴミ箱に放り込む。
ナイス・シュート、と小さく呟く。
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梅雨の中休みの上天気の放課後、部活の時に金管が屋上でロングトーンをするというので、一緒に
上がってみた。
とはいえ、私は担当楽器がファゴットで、戸外で吹けるシロモノではないので、手ぶら。
要するにサボり。こんな良い天気の日に、楽器抱えてモグラになりっぱなしじゃ悲しい。唯一の
同楽器の後輩は、初心者用エチュードと共に、暗い廊下の隅に置き去りにしてきた。
金管のメンバーは、平行に東西に並んだ二棟の校舎のうち、北校舎の屋上に一列に並び、青々した
広大な田んぼに向かって輝くベルを向ける。
青い空。夏を思わせる白い大きな雲。一面の緑色の田んぼ。乾いた風。
笑ってしまうほど、青春なシチュエーション。もう少し、綺麗な音で、音程が良ければ申し分なし。
金管の音を背中で聞きながら、ふらふらと屋上を散歩する。
ふと、動くものを目の端に感知して振り向くと、金管の連中が背中を向けている南校舎の屋上に
誰かがいた。
もしかして、謎の転校生早乙女くんじゃないか。
そう気づいた瞬間、私は反射的にフェンスの土台の陰にしゃがみこみ、身を隠した。別に隠れなきゃ
いけない理由はないんだけど。
彼は、少しの間、こちら側で始まった騒ぎを眺めていたようだったけれど、すぐにフェンスぎわを
ゆっくり歩き始め、校舎に挟まれた中庭を見下ろしている。
何やってるんだ、あっちには何もないぞ。
こちらの今私たちがいる北校舎の屋上は、ハンドボールやゲートボールのラインが引いてあったりして、
体育で使うこともままある。実際さっきまで卓球部が柔軟体操とランニングをしていた。
しかし、あっち側には、天体望遠鏡のドームが飛び出していたり、ボイラー室や給水塔がやたら設置
されていて、ごたごたしているだけ。日頃は地学教師や用務員さんしか用事はないのではないか?かく言う
私でさえ、三年になった今でも、あっちの屋上には出たことがない。
−−−何やってるんだ?
思わずまじまじと目で追ってしまったが、彼はこちらを気にする様子もない。
まあ、見られてると解ったところで、彼が転校してきて一週間も経ってないのだから、私のことなんか、
まだ覚えていないだろうけど。文系の私と、理系の彼では授業が殆ど一緒にならないこともあって、
未だ挨拶くらいしか交わしたことがない。
毎日のように彼を眺めにやってくる、他のクラスのミーハーな女の子達の方が、よっぽど覚えて
もらっているだろうってくらい。まぁ、そのために日参してるんだろうけど。
彼は一心に中庭を見つめているようで…造園に興味があるとか?それにしても、中庭にはせこい池と
手入れの悪い植え込み、大きいだけで芸術性があるかどうか解らない庭石がいくつかあるだけで、
大した庭とは思えない。
少し風が強くなり、私は慌てて薄くて軽い夏服のスカートの裾を押さえた。
もちろん、向こうの屋上にも風が吹き、彼の白いカッターシャツを膨らませ、薄い色の髪を金色に
なびかせる。細い頸は空を振り仰ぎ、その透明感は天使を連想させる。ばさりと肩甲骨から白い翼を広げ、
飛んでいってしまいそう。
しかし、彼は歩いてフェンスを離れると、給水塔の陰に入り、段差に腰掛けて本を開いたようだった。
本を読む場所を探してたのか?それなら図書室に行けばいい。今は中間テストと期末テストの間だから、
まだそれほど混んでないだろうに。
まあいいけど、私には関係ないし。
私は立ち上がってスカートの埃を払いながら思った。
でもやっぱ、彼って、けっこー謎……
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