屋上で目撃したことが頭を離れないまま、部活を終えて教室に荷物を取りに戻ると、開け放たれた出入り口から、

早乙女くんの背中が見えた。

 彼の席は廊下側の一番後ろなので、良く見える。こんな時間まで本を読んでいたのか?

 そして、彼の隣の机には女の子が座っている。誰かと思ったら、隣のクラスの、香山さやか。気位も高いが、

それに見合うくらい、可愛いし、新体操では県で5本の指に入る実力者という。小柄なのに、手足はすんなりと

長くて、顔は牧瀬里穂系。東京の路上で、芸能プロダクションにスカウトされたというのが自慢。口の悪い聡子

などは「ブルセラだったんじゃねーの」等と言っているが。校内で袖にされた男は数知れず。よーするに、うちの

学年では男子には、一番人気の女の子なのだ。

 いつの間にこの二人、知り合いになったんだ?選択授業とか?香山って、理系?

 何となく入りそびれて、人気のない引き戸の影に身をひそめる。

「もちろん、女の子とつき合ったことがないわけじゃないんでしょ?」媚びを含んだ口調が、やっぱなんか

ちょっとヤダ。

「ええ」

 失礼なほどではないが、明らかに無愛想な彼の声。

 どうやら教室にはこの2人しかいないらしい。そうでなければこんな会話しないよな…。

「そーだよねえ、早乙女くんくらいかっこよければあ。でも、今はつきあってる人はいないんでしょ」

「いません」

「ならぁ、私とつきあってみない?きっと仲良くなれるわ」

 わあお。これって、告白?偉いストレートで大胆だなあ。

 あれ、でも、彼女、大学生とつき合ってるっていうウワサ。

「まだ知り合って2,3日なのに、どうしてそんなこと言えるんです?」

 静かで抑揚無い早乙女くんの声。

「だって、そう思ったの。早乙女くん格好いいんだもん」

「せっかくですけど、結構です。俺、今そういう気ないんで」

 すっげえ。きっぱりと、大人な受け答え。こんだけ可愛い子のストレートなアプローチを受けて、これだけ冷静に

きっぱり断れる男って、そういないんじゃないかい?

 香山さやかだけじゃなく、この数日間に彼の美貌に惹かれて数多くの娘が接近を試みたようだが、男子校

育ちのせいか、女子には頑ななほどの一線を保持しているようだ。慇懃な態度に、却って女子達は

鼻白んでいる。私自身、時々敬語が混じる丁寧な口調に、そこはかとない拒絶を感じていたりもする。

 その態度が男子には受けが良く、クラスの男子達にはすっかり受け入れられている。容姿の割には無害な

存在と認識されたということか。

 さすがの香山さやかも黙ってしまった。自分から言い寄ることも珍しいだろうし、それをここまできっぱり

断られるとも予想していなかったのだろう。

 もしかして、早乙女くんにアタックするために、今までの彼氏と別れたんだろうか?いや、キープしてあるん

だろう、どうせ。

 私は一つ大きく息を吸うと、

「あれ、香山さん、どうしたの?どうしてうちのクラスにいるの?」

わざとらしく大きな声でそう言って、教室に入った。

「あー疲れたぁ」

 続けてそう言って、自分の席に着いた。つまり、香山さやかの目の前だ。

 机に綺麗な脚が見えるように浅く腰掛けていた彼女は、淡く化粧の施された目を、怒りに大きく見開いた。

「別に、通りかかっただけよッ」

 香山さやかは椅子を蹴倒して、教室を出ていった。ルーズソックスが片方下がっている。茶髪のロングヘアが、

激しい怒りを表すかのよう逆立っていた。

 私はわざとばたばたと荷物を片づけ始めた。

「…ありがとう、曽根さん」

 後ろから早乙女くんがほっとしたような声で言ったので、思わず振り向いた。

 目が合ってしまって、ちょっとくらくらっとした。吸い込まれそうな、深い栗色。

 慌てて腹式呼吸に切り替えて、「私の名前、覚えてくれてたんだ?」

 彼は困ったように笑って。「そりゃあ、席近いし」

「でかいから目だつし?」

「そんなこと言ってないって…聞いてたんでしょ?」

「ゴメン、ちょっとね、だって、入りにくかったんだもん」私は肩をすくめてまた荷物の方に向き直る。

「いや、それは良いんだけど、助かった」

「それなら良かった…大変だよね、早乙女くんくらい美形だと」

「…まあね」

 まあね、って、けっ、どんな顔で言ってるんだこいつ。と思ってまたちょっと振り向くと、真摯な眼差しで私を

見ていたので、本当に大変なんだな、と理解する。

 その眼差しが強すぎて、目を逸らす。

「言いふらしたりしないから、安心して…ねえ、何読んでるの?」

 カバーのかかった文庫本が机の上に伏せられていた。

「ミステリなんだけど」

「何?」

「『図書館の殺人』っていうの。知ってる?」

「知ってる。読んだよ」

 そう言って、私はにやりとと笑ってみせた。

「へえ、読んでるんだ…あ、先は言わないでっ」彼は慌てて両手を胸の前で振った。

「今日のところは勘弁してやるよ。じゃあね、また明日」

 そう言い残し、私は足早に教室を出た。

 …ふうん。 

「図書館の殺人」なんて、読んでるんだ。






 土曜日の夕方、小雨の中、吹奏学部のタイコの桜と、市内の大学病院に入院している、顧問のところに

お見舞いに行った。

 入院と言っても、病気などではなく、自分で通勤中原付で転んで脚を折ったのだ。あまり同情できない。

「お、美誉、桜、良く来たな!」

 外科の6人部屋に入った途端、大声で迎えられた。

 顧問…菅尾先生は、一番奥のベッドに起きあがり、やれやれ、スコア読んでるよ。

 その部屋はたまたまだろうが、おじいさんが多く、私と桜は首をすくめるようにぺこぺこしながら病室の

奥へ進んだ。

「先生、お加減どうですか?」桜が心配そうに訊いた。

 桜は入学当時から菅尾先生…菅ちゃんがお気に入りで、それでも恋心を見事に隠し通していて、いつも

感心している。

世話女房タイプの桜は、菅ちゃんとお似合いだと思うが、なんせ歳の差と教師と生徒という関係が。

「もう大丈夫だ。来週には退院できる。今までの分、ばんばん合奏するからな、ちゃんとさらっとけよ」

 菅ちゃんは嬉しそうに言う。血色も良く、左足の落書きだらけのギプスが無ければ、何で入院してるのか

わかりゃしない。

 菅ちゃんは熱血指導が持ち味で、それはとても有り難いのだが、ペースに乗せられてると、受験勉強を

忘れさせられる。

 ちなみに、29歳・独身・担当教科は世界史。

「先生、ケーキです」私はベッドにまたがったテーブルに、コージーコーナーの小箱を置いた。

「お、悪いな、サンキュ。助かるぜ、病院の飯、全然足りないんだよ」

 そりゃそうだろう、その巨体を支えるには。

 ちなみに180cm自称80kgだが、体重はもっとあるのではないかと、私は推測している。

「そうだ、下の喫茶に行って、コーヒー飲みながら食べようぜ」

「良いんですか、もうすぐご飯でしょう」

桜がそれでもベッドを降りようとする菅ちゃんの体を支えながら言った。

「もちろん大丈夫。それに、喫茶のママさん、結構色っぽい年増美女だし、1日に一回は顔出して

おかないとなあ。ですよねえ」

 菅ちゃんは回りのおじいさんたちに同意を求めた。おじいさん達は塩辛声で一斉に笑った。

 菅ちゃんは私たちを促し、器用に松葉杖を使って病室を出た。

 桜は菅ちゃんを支え、私はケーキの箱を持つ。 

 エレベータに向かいながら、菅ちゃんは溜息を吐いた。「やれやれ、気をつかう」

「何です?」桜が心配そうに覗き込む。

「同室のおじいさん達。俺には毎日のように先生方とか生徒とか、お見舞いに来てくれるだろ。でも、同室の

患者さんの中には、俺よりよっぽど長く入院してるのに、家族さえちっとも会いに来ない人もいるんだよな」

 なるほど。そんな状況で、孫のような歳の私たちがいたら、辛くなってしまうかもしれない。病室から急いで

出たのはそういう理由があったのか。

「…先生、松葉杖、上手ですね」

 桜が考え込むような表情になってしまったので、私は慌てて言った。

「だろ?リハビリの成果よ。幸い左足だから、車は乗れるし、来週の検査で順調だったら、退院して、すぐにでも

職場復帰できるってさ」

 げ、まじかよ。コンクールの曲、マジでさらっとかなきゃ。
 
 それでも、エレベータにたどり着いた頃には、先生は顔を赤くしていささか息も上がっていた。
 
 一回の喫茶室は明るくて、広々していた。夕方だが、お見舞いの時間帯なので、結構混雑していた。

 そして、カウンターには、確かに病院の喫茶とは思えない、色っぽいママさん。

 菅ちゃんがコーヒーの食券を奢ってくれて、3人で窓際の席に座る。窓が開いていて、しとしとと降る雨の音が

聞こえて気持ちがいい。窓の外は広い駐車場。
 
 3人分のアイスコーヒーを頼み、ついでにケーキを食べるための、皿とフォークを頼み…本当に常連らしい。

「先生、どれがいいです?」ケーキの箱を開ける。

 菅ちゃんは箱を覗き込んで。

「どれも旨そうだな。4つあるな。俺2つ食べて良いか?」

「もちろんいいっすけど…大丈夫ですか?」

「大丈夫大丈夫」

 入院中に太るんじゃなかろうか。

 そこへママさんがコーヒーを運んできてくれた。「先生、良いわね、可愛い女子高生がお見舞いに来てくれて」

 ママさんはコーヒーを並べてくれながら、如才なげに言う。

「はははは、可愛いかどうかはおいといて、確かに女子高生ですけどね。俺にとっては只の生徒、ただの

ガキですわあ。俺のタイプはもっと大人の女ですよ。ママさんみたいな」菅ちゃんは、大げさに手を広げて

そんなことを言う。

「全く口の上手い先生だわね」

 そう言いながらも、ママさんはまんざらでもなさそうで、「ごゆっくり」と言い残し、軽い足取りでカウンターに

戻っていった。

「先生、私たちって、ただの可愛くないガキ?」桜がモンブランを崩しながら恨みがましい目で訊いた。下唇を

尖らせて、ほっぺたをちょっと膨らませているその表情が、最近思い切ってカットした、茶髪のつんつんした

ショートヘアと相まって、とても可愛いと思うんだが、肝心の管ちゃんはどう見てるんだか…

「ばっか、持ち込みの上に皿とフォークまで貸してもらったんだから、リップサービスだよ」

 ジャンボ・シュークリームを3口で食べてしまった菅ちゃんは、しれっと言った。

「先生、ママさんみたいの、タイプですか?」 桜に成り代わり、訊いてみる。


「いやそういうわけじゃなくて…そうだな、俺としては、大人の落ち着いた、和風で清楚な美人が…例えば

あのような」菅ちゃんはフォークで私の背後を指した。

 振り返ってみると…あ。

「あれ、美誉のクラスの転校生じゃない?」桜が小声で言った。

制服姿の早乙女くんが、入院患者らしい白いガウンを羽織った女性と、柱の陰の席に座って談笑していた。

「そういえば先生方が言ってたな。3年生に今頃転入があったって。母子家庭で東京で暮らしてたんだけど、

母親が病気になって、実家を頼ってこっちに来たって。そうか、あいつが」菅ちゃんも彼らを覗き込みながら

ちょっと小声になった。「学校でもこんな時期にあまり編入受け入れたくなかったらしいけど、事情が事情だし、

試験の成績がとびきり良かったらしいから、受入れを決めたらしい」

 菅ちゃんは、2個目のチェリータルトに取りかかった。

「ふうん…」

 そうか。そんな深刻な事情が。話したがらないはずだ。

 お母さんか…なるほど。

 肩越しにそっと振り向いて観察する。

 お母さんは横顔しか見えないのではっきりしたことは言えないが、ほっそりした輪郭や、ぱっちりしているのに

ちょっと悲しそうな目の辺りがそっくりなようだし、ただよう空気も似ている。もちろん、早乙女くんの方が全然

バタくさいんだけど。と、いうことはお父さんが外国人なのかな?

 お母さんの、白髪の目だつ長い髪は、首の脇で緩く編まれていて、病気のせいかやつれてはいるけれど、

確かに菅ちゃんの言うとおり、繊細で透明で清楚な美しさ。

「なんだかやたら、美しい親子だな」

 確かに、二人の回りだけ、次元が違うほど美しい。田舎の大学病院ではなく、高原のサナトリウムの光景を

見ているかのようだ。

「挨拶してくれば?」桜が私に言った。「こっちで一緒にお話しませんかって」

「いいよ、やめとこ」私は彼らから目を逸らし、ベイクド・チーズケーキの方へ向き直った。

「何で?先生も紹介して上げればいいじゃん」

「…邪魔したくないよ」

 彼の表情が、学校では見たことがないほど柔らかく、優しげだったので、邪魔したくなかった。

 テーブルに肘をつき、ちょっと首を傾げ、彼はお母さんに何を話しているのだろう。

 新しい学校のこと、友達のこと、最近読んだ本のこと…?

 二人とも笑顔ではあったが、少し悲しそうだった。

                                      
NEXT   作品目次へ

樹下の天使1−2