管ちゃんのお見舞いに行った週末が明けて月曜日の放課後、部活に行く前に図書室に立ち寄った。

2ヶ月前にリクエストしていた本が入荷したと、図書委員の友人、仁美が声をかけてくれていたのだ。

 嬉しい気分で図書室の両開き扉を押してはいると、正面にカウンター。その前で早乙女くんが

立ち読みしていて、カウンター当番の仁美がうっとりと彼を見上げていた。

 仁美は私が入室してきたのに気が付くと、慌てたように頭の上で両手を合わせて拝んだ。

 何だ?

 カウンターに近づいていくと、早乙女くんが熱心に立ち読みしているのは、私のリクエスト本、

大江健三郎の『宙返り』ではないか。

 仁美がカウンターに座ったまま私の顔を引き寄せて小声で言った。

「ゴメンよ、美誉が来たらすぐ渡そうと思って、カウンターに乗せておいたら、ちょっと

すいません、って読み始めちゃったのよ」

「予約済みですってどうして言えないのさ」

「だあってぇ…」そう言ってまた仁美は早乙女くんをうっとりと見上げる。

 私たちのやりとりに気づいた早乙女くんは、慌てて本を閉じた。「あ、これ、曽根さんの予約

だったの?ごめん」
 
その焦った表情が意外と可愛いかったので、私はちょっといい気分になって

「大江健三郎好きなの?」と訊いてみた。

「うん、好き。特にこのシリーズは」彼は真顔で頷く。

 思ってたより彼、背が高い。こうして間近に並んでみると、結構見上げてしまう。

「そう。じゃあ、先に読んで良いよ」

そう言うと、彼は目を驚きに丸くして「え、だって、曽根さんの予約なんでしょう?」

「いいよ、部活も忙しくなってきたし、すぐには読めそうもないから」

「そうだ、こないだも訊きそびれちゃったんだけど、部活、何に入ってるの?文化部っぽいけど」

「吹奏学部。夏のコンクールに向けて佳境に入ってるのさ」

 今週から菅ちゃんが復職し、毎日しぼられている。松葉杖がまだ手放せない以外は、入院前より

元気なくらいだ。

「そうなんだ、楽器何?」

「ファゴット…って解る?」

「ああ、煙突みたいの。へえ、かっこいい」

「かっこいいかぁ?相当地味だと思うけど」

「あのー、結局どちらが借りるんです?」仁美が、無駄話を始めてしまった私たちに割り込んだ。

「そういうわけなので、どうぞ」私は右手を挙げて、彼を促した。

 すると、彼はとても嬉しそうに笑って。

 …くらっとした。 この笑顔、キケン。

「ありがとう、じゃお言葉に甘えて。なるべく急いで読みますから」

「ゆっくり読んで良いよぉ。急いで読むような本じゃないでしょ」

「それじゃ、早乙女さんは貸し出し始めてですから、学生証出して下さい」

「ありがとうね、曽根さんも待ってたんでしょう?」手続きを待ちながら、彼が私の顔を

覗き込んで言った。

「どうしたしまして。文芸マニア同士助け合わにゃ」

 目を合わせるとまた目眩がしそうだったので、視線を、彼のボタン2つ開けた襟もとから見える、

しっかりした鎖骨あたりにおきながら答えた。

「私、もう一つ部活入っててさ」思い切って切り出した。先週から考えていたこと。

「そうなんだ。忙しいね。何掛け持ちしてるの?」

「文芸部。と言っても、掛け持ち部員が多くて、秋の文化祭に会報出す他は、適当に集まって文

芸談義したり、情報交換してるだけなんだけど」

「曽根さんどんなの書いてるの?創作?」

「どんなの書いてると思う?」

「そうだな…ミステリ?好きなんでしょ」

「ハズレ。エンタテイメントの書評」

「へえ」彼はまた驚いた表情をした。

 …意外と表情豊かじゃない。

「面白そうだね」

「そう思う?」

「うん。今度読ませてよ」

「それよりさ…良ければなんだけど、早乙女くん相当好きみたいだし…文芸部、入らない?」

 彼は更に目を丸くした。




 
 
 次の朝、朝練をするので早朝に荷物を置きに教室に行くと、すでに数人のクラスメートがいて、

朝勉していた。
 
 その中に早乙女くんもいて、昨日借りた本を読んでいた。

「おはよう」彼は勉強してる子達の邪魔にならないように、小声で挨拶した。

 今朝もチャーミングな笑顔。

「おはよう…え、もうそんなに読んだの?」

 分厚いハードカバーの3分の1くらいが開かれている。

「ゆっくりで良いのに」

「面白くてさ、昨夜、夜中まで夢中で読んじゃった」

「夢中になるような本かなあ…面白い?」

「面白いよ。特にシリーズを読み込んでる人にとっては面白いんじゃないかな」

「へえ…楽しみ」

「急いで回すから、曽根さんも早く読んで語り合おうよ。そうしないと俺」

 彼はいたずらっぽく笑って。

 初めて見た表情。

「我慢できなくて、一人で語り始めちゃうかもしれない」

 …これはこないだの『図書館の死体』のお返しだな。






 午後の選択家庭科の時間、浴衣を縫いながら、聡子がにやにやして言った。

「美誉さ、今朝早乙女くんといい雰囲気だったってゆうじゃない」

「誰がそんなことを」

「朝勉してた子達がみんなー」

 集中して勉強してたかと思ったら、しっかり会話には聞き耳をたてていたと。

「別にどーってことないんだよ。早乙女くんに図書室の本譲ってあげたからさ、その本の話」

「へえ早乙女くんも本オタクなんだ」

「オタクってやめて。せめてマニアと言って欲しい」

「でも、彼、いつになく女の子と仲良く話してたって、言ってたし」

「誰が」

「だから朝勉してた子達」

 やれやれ。「それこそ文芸マニアな話で盛り上がってただけじゃん。それ以外には何もなし。

残念でした」

「ふうん…せっかくなのに。早乙女くんって、女の子に愛想悪いけど、あの見かけの割に硬派な

性格がいいって、かえってファンが増えたみたいなんだよ」

「ふぅん…」

「そうそう、あんた昼練でいなかったけど、今日も昼休みにさ、例によって他所のクラスの

女の子が早乙女くん見学にきてたのよ」

「あーうんうん」

 ここ数日は3年ばかりでなく、下級生までも来るようになってしまった。早乙女くんの席が

廊下側のすみっこだから、またこれが良く見えるんだ。

「でね、差し入れですぅーとか言って、手づくりのクッキーを渡してる子がいてさ、

顔知らなかったから下級生だと思うんだけど」

「うへ」

 そもそも大勢のいるところでそういうことやれる神経が私にはわからんが。

「早乙女くん、一応ありがとう、って受け取りはしたんだけど、悪いけど、俺甘いもの苦手

だから、みんなに食べてもらうねって、高橋とか私とか、周りの席にいたやつらに配っちゃったの」

「ぶは」

 うーん、その時の渡した子の表情がちょっと見てみたかったかも。

「それから早乙女くんてば、廊下に群がってた子たちに、俺、弁当は落ち着いてゆっくり食べたい

ので、そんなに騒がないでもらえますか?クラスのみんなにも迷惑ですので、ってきっぱり」

「おお、やるな」

「ぶっちゃけ、ちょっと痛快。確かにうっとうしかったから」聡子はくっくっくっと肩で笑った。

「わかるわかる」

私としては、先日居合わせてしまった、香山さやかの強烈アタックについて話したくて

うずうずしたが、早乙女くんに約束したし…やめとこう。

「聡子は?そんで早乙女くんのファンになったわけ?」

「まあねえ、鑑賞してる分にはいいけどさあ」聡子は苦笑して。「あんな綺麗な子と並んだら、

こっちが見劣りしちゃうよう。美形にも程があるって」

「言えてる。綺麗すぎて現実感ないよね」

「それに私、彼氏らぶらぶだしぃ」

 聡子の彼氏は一つ上の先輩で、今年京大に進学したので、聡子も関西の大学を志望している。

「いいねえ。幸せな人は」

「美誉だって、その気になれば、簡単にゲットできるでしょうに。美人だし、頭良いし、

スタイル良いし」

「良く言うよ、この体格と性格に恐れをなして、近寄ってくる男がいないって」

 …全くいないわけじゃないけどね。

 縫いかけの浴衣を示して。「この浴衣だって、大判の反物めいっぱい使ってるんだからね。

縫う量が多くて大変なんだから」

 大判は数が少ないので、無難な地味な藍の団扇柄を選ぶしかなかった。

「ふうん…もしかして、また背伸びた?」

 聡子の浴衣は抹茶色に白いウサギが点々と跳ねていて、とても可愛い。彼女のトレードマークの

ポニーテイルに良く似合うだろう。

「伸びたよ、去年より1cm。ただ今171cm」

「わあ、そりゃキテる。うちの彼氏より大きいんだな。それじゃ男も選ぶよね」

「私は構わないんだけど、男が引くっしょ」

「モデル体型も大変だ」

「モデル体型なんかじゃないって。ただひょろ長いだけだって」

 手足が長いのは自分でも認めるけど、その分胴も長いし…胸もないから、余計間延びした感じだし。

肩幅も広いし、手足もでかい。せめて、もうちょっと凹凸があればなあ、と思う。

「この歳でまだ背が伸びてるなんて、恐竜だね」

「それ超失礼」

 昨日図書室で早乙女くんと並んだときのことを思い出す。思いの外、大きかった。もっと華奢な

イメージだったんだけど。180cmくらいありそうだった。肩幅なんかもしっかりして…。

 つっ。

 針で指を刺してしまった。

 雑念が入ってるからだ。

 指した指を舐めると、血の味。

 体格的には許容範囲かもしれないけどさ。

 でも。

 あんな天使のような人に、私はふさわしくない。


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樹下の天使1−3