そして、彼が本を借りてからちょうど1週間後。

 朝のホームルームの後、早乙女くんが私の背中をつついた。「昼休みにでも、一緒に図書室行かない?」

「もう読み終わったの?急がなくていいって」

「急いでないよ。2回も読めた。書評が書けそうなくらい」彼は1時間目の教科書を用意しながら、

笑った。

 その日の午前中はちょっとうきうきしていた。昼休みが待ち遠しかった。

 正直に自己分析すると、待っていた本が読めると言うだけではないだろう。早乙女くんと行動

できることが嬉しいのだ。

 昼休みになってすぐ、図書室に二人で行くと、仁美がまたカウンター当番だった。

 彼女はにやりと笑って「おや、おそろいで」

「そのまま貸し出しするんなら、二人で来た方が効率的でしょ、お礼言って欲しいぐらいだよ」

 彼の帰した本を、そのまま私が借りて。

 私の図書カードを覗き込んで、彼が言った。「曽根さんの名前って、難しい字なんだね」

 定番の突っ込みに、仁美が吹き出す。「美誉んち、造り酒屋なのよ」

「は?」

「曽根酒造って、知らない?バス停の名前にもなってる」

「もしかして、国道沿いに蔵の見える?」

「そうそう」

 子供の頃から繰り返されてきた質問に、少々うんざりしながら答える。

「あのね、うち、古〜い造り酒屋なのね。で、越中誉っていう商標でね、だから代々誉のつく

名前が多くて、私が美誉子でしょ、祖父が誉吉、親父が誉一、伯父が誉二郎、跡取りの兄貴がモロ誉」

 あ、うけた。

 仁美と共に、早乙女くんも爆笑している。

「すいませんねえ、センスのない家系で」

 彼は涙ぐんでさえいる。自爆ギャグになっちゃったけど、彼のこんな無防備な笑顔が見れたから

まあいっか、という気分になる。

「いやいや、そんなこと言ってないけど」仁美もハンカチを目にあてている。

「そうなんだねえ、さすが酒どころ、なるほど」彼も散々笑っていたが、ふと我に返ったように、

「そうだ、大江健三郎の新しめの評論なんて、あります?」急に真顔になって仁美に訊いた。

「あー、評論はあんまりないんですよぉ。読む人いませんからねえ。先生方の寄付とか、教科書に

載ったのくらいで」

 仁美が申し訳なさそうに言った。別にあんたのせいじゃないと思うぞ。

「文芸評論なら、県立図書館になら結構あるよ」口を挟む。

「県立図書館って、N市にあるの?」彼が私の方に向き直る。

 県庁所在地のN市までは、電車で1時間ほどかかる。

「うん、私時々行くから、どんなのがいいか言っておいてくれれば見繕ってきてあげるよ。検索と

返却は市立図書館でできるし」

「そうなんだ、なら、今度連れて行ってくれない?見当つかないからさ」

 おお?

これって、デートのお誘いか?

 いやでも、図書館…文芸評論を探しに、ってデートか?

「いいけど…」照れ隠しに慌てて言葉をつなぐ。「評論まで読むんだ?」

「うん、それ読んで、何か書けそうな気がしてきて」

「論文?」

 彼はにやっと笑って。「てゆーか、書評。曽根さんがエンタテイメントなら、俺が純文の書評

しようかと思って」

「…それって?」

 それって、文芸部に入ってくれるってこと?






 行きがかり上、教室に戻ってから、早乙女くんと差し向かいで弁当を開くことになってしまった。

 話題はどうしても、今まわしてもらった本のことになる。

 興味津々で首を突っ込んでいた聡子も、話題の内容を悟ると、どこかに行ってしまった。

「私としては、やっぱ、セッちゃんの設定が、効いてると思うんだけど」

「そうだね、両性具有って、古典的な文学のテーマだけど、セッちゃんは新しいよね」

 彼の弁当は豪華版だ。塗りの二段重ねに、和風のお総菜が上品に並んでいる。漬けた紫蘇が巻いて

あるだし巻き卵がふっくらして、とても美味しそうだ。

 誰が、お弁当作ってくれてるのかな。お母さんが入院してるのに。お母さんの実家に世話になってる

らしいから、親戚の人だろうか。まさか、彼本人の作品だったりして。

「曽根さん、セッちゃん好き?」

「うん、好きだよう。両性具有って、ひとつの理想のあり方じゃない?美しいよ」

「うんうん。それ、言える」

「それに…自分も女じゃなければ良かったのに、って思うこともあるしさ」

「そんなこと思うの?」彼が箸を止めて、私を覗き込む。

 しまった、つい…。

「だってさ、ほら、この体格と性格ですから、男の方が生きやすかったんじゃないかと」

 慌ててちゃかす。

「そんなこと、ないでしょ」彼は笑わずに言う。

 一瞬うなじの毛が逆立った。内側の傷をちらっとでも見せてしまった羞恥。それを、見透かされて

しまった恐怖。

 彼の眼差しは、私の眼球を通り抜けて、脳にまで達しているのではないかと、そう思わせる

栗色の瞳の強い視線。

「俺も、セッちゃんすごく好きだけど、悲しくなるな」私の動揺に気づいたのか気づかなかったのか、

彼は話を続ける。「特にセックスシーンは読んでて辛くなる。綺麗なんだけどね」

 うわ。

 私は慌てて周囲を見回す。こんな昼間っから、しかも教室でセックスなんていう言葉をさらっと

口に出来るとは。

 しかし、彼の低く柔らかい声は喧噪に溶けてしまったらしく、誰も私たちを注目していない。

 それにしても。

「悲しくなるの?」

「うん…特に『燃え上がる緑の木』で、3人でやるシーンがあったでしょう。あれなんか、途中で

読めなくなったなあ」

「ああ…」

 あれは、私も読んでいて辛くなった。

 私はどうして辛くなったのかというと―――開けてはいけない蓋が、開きそうになったから―――

心の奥底にある、暗く深い穴の蓋。

 端正な美貌はすっかり考えこむような表情になってしまって、弁当を食べる手も止まっている。

―――まさか、あなたも、思い出すとつらくなるようなセックスをしたことが、あるの?

 その美貌を見つめずにいられない。

―――あなたのような、美しい人が?

 予鈴が鳴った。

「あ、やばい、急いで食べなきゃ」彼は夢から醒めたように、弁当に専念しはじめた。

 私も慌てて弁当をかっこむ。

 次の授業は共通英語のリーディングだった。

 心は波だったまま収まらず、英文の上を視線がすべるだけで、何も頭に入ってこない。

 ただ、早乙女くんが指名されて朗読しているときだけは、うっとりと聞き入ってしまったが。

彼の発音は、教師も関心するほどのネイティヴで、おそらく英語圏に住んでいたことがあるん

だろうなあと、容姿と相まって納得してしまう。

彼が着席した後、教師の解説を聞き流しながら、机の中のさっき借りた本に触れてみた。

これも、彼の心を波立たせたのだろうか?

今は、右斜め後の席からは、何の感情の起伏も感じ取ることはできないが。

私の心も、また激しくゆすぶられるのだろうか?

そう考えると読むのが怖くなる。

文学の力を思う。






 期末試験直前で、吹奏学部の練習は休みになったので、放課後久しぶりに文芸部の部室に顔を出した。

 文芸部の部室も閑散としていて…にぎやかな方が珍しいんだけどさ…元部長の3年生の三浦と、

現部長の2年生の石田が辛気くさく会誌の企画会議をしていた。

 外は梅雨末期の集中豪雨っぽい大雨で、窓を閉め切らざるを得ず、狭い部屋の中は異様に蒸し暑い。

 二人に、試験が終わったら、早乙女くんを連れてくることを相談した。

「ちょっとトウがたった新入部員だけど、いいかな?」

 石田に訊く。

「もちろんですよ、書ける人ならもう、3年生だろうが留年生だろうが大歓迎」

「まあ、一応受験生だし、色々忙しい人みたいだから、あんまり過剰な期待はしないであげてよ」

「早乙女って、あのすっげえ美形の転校生だろ?」三浦が言った。彼は隣のクラス―――早乙女くんに

強力アタックをかけた香山さやかと同じクラスだ。

「そうそう」

「体育だけ一緒だけどよぉ、本好きには見えないなあ」うさんくさげに言う。

「何言ってるの、すごいんだからもう」オタクなミステリを読んでいたこと、一週間で『宙返り』を

読んできたこと、その後のマニアックな議論?のこと、書評を書くために文芸評論まで探してることを

説明した。

「筋金入りですね!」石田が嬉しそうに言った。石田も純文オタクだから、それ系の議論が闘わせられる

相手が増えることに期待しているのだ。ちなみにコイツの座右の書は『失われた時を求めて』だ。私は

読んでいない。

「ふうん…本物かぁ」三浦が納得したのか、椅子にそっくりかえって頭の後ろに手を組んだ。その髪形は

文芸部とは思えないつんつんの金髪。

 そして、私の方を見ないで言った。

「まさか…美誉の彼氏ってわけじゃないよな」

 はっとした。最近は、ほとんど意識しないで済んでいたのだが、2年の冬に三浦に告白された

ことがあるのだ。

 三浦のことは決して嫌いではないが、正直な気持ちを言って、即お断りしたのだが。

 正直な気持ち―――三浦のことは、友人として好きではあるが、それは異性としてではないこと。

それに今は、男の人とつき合う気が全くないということ―――特に後半が、当時の私にとっては

重大だったのだ。
 
 それがなければ、三浦はとてもイイヤツだし、つきあってみていたかもしれない。
 
しかし、本当に、私は高校に入ってから誰ともつきあったことはないし…少なくとも三浦に見える

範囲では…三浦をお断りしてからも、誰ともつきあっていないので、彼なりに納得してくれたようで、

以前の通りの仲間づき合いが続いている。

……と、私は思っていたのだが、三浦はまだ少し引きずっていたのかもしれない。

「違うよ。そんなんじゃなく」

 石田も私たちの顛末を知っているので、気まずそうに黙ってしまった。

「なんつーか…ほら、こんな時期に転校して来るって事自体、すごく大変なことだし…それに、

なんか複雑な事情があるみたいなんだ。だからさ、趣味を同じくする仲間ができれば、少しでも学校に

なじむかな、って」

 説明になってるかな。

「その複雑な事情って、美誉知ってるのか?」三浦が身を乗り出した。

「ちょっとはね…でも、本人に訊いたわけじゃないから、言えないよ。ごめん」軽く頭を下げる。

万感の思いを込めて。

「そりゃそうか。たしかに訳ありげなヤツだよな」

「でしょ?」

「ま、いいか、部員が増えるのはありがたいから」三浦はまた椅子にそっくり返った。

「よろしく頼みます。仲良くしてあげて。顔の割には硬派で良いヤツだと思うからさ」

「顔の割には、か」

 やっと三浦が笑ってくれたので、ほっとした。


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樹下の天使1−4