足利義満(あしかが・よしみつ) 1358〜1408 (2/2頁)

応永元年(1394)12月17日に将軍職を同日に元服したばかりの嫡子・義持に譲り、同月25日には太政大臣に任ぜられて公家の極官に昇ったが応永2年(1395)6月3日にはこれを辞し、同月20日に38歳で出家した。法名は道有、ついで道義と改め、天山と号した。このとき管領の斯波義将や左大臣の花山院通定をはじめ、多くの武家や公家が義満に従って出家している。この出家は世俗との縁を断って仏門に入るためではなく、世俗を離れて武家や公家をも超越した存在として君臨するためのもので、その先例を平清盛に求めたものと見られている。義満は同年9月に東大寺に受戒し、ついで応永3年(1396)9月には比叡山延暦寺に受戒した。そのいずれも法皇受戒の儀式に倣ってのものであったという。
そして応永6年(1399)12月には大内義弘を和泉国の堺に討ち(応永の乱)、いよいよその権勢を不動のものとした。
応永8年(1401)5月、義満は明国に使節を派遣して、元寇以来絶えていた国交の再開を求めた。これは明国の冊封を受けることで日本の主権者であることの保障とともに、貿易によってもたらされる莫大な利益をも得ようとしたためであったと見られている。
この使節は明国からの使者を伴って翌応永9年(1402)8月に帰国し、携えられた明国の建文帝からの国書は義満を『日本国王源道義』と見なし、日本を明国の属国として朝貢を認めるものであった。応永10年(1403)2月、義満は帰国する明使に同行させた使節に「日本国王臣源表す、臣聞く」に始まる上表文を託し、正式に明の冊封を受けた。その結果、明国の永楽帝(燕王)がその翌年に義満の賀表を嘉する旨を記した国書とともに冠服および金の『日本国王之印』を贈り、勘合符を出して十年一貢と定めたことにより対明勘合貿易が開始されるが、応永への改元に際して義満が明国の洪武帝の例にならって年号に洪の字を用いようとしたこと、明国に対して取った臣従の態度には当時から批判があり、来日した明使の待遇についても側近の管領・斯波義将や三宝院満済などから丁重の度が過ぎるとして批判されている。
義満ははじめ日野業子を室としたが、応永12年(1405)7月に業子が病死したあと、日野資康の女で業子の姪にあたる康子を室に迎えた。翌年12月、後小松天皇の母・通陽門院が没すると、義満の意向で康子は母国に准ぜられ、准三后の宣下を受けて北山院と称し、翌年3月には入内の式を遂げた。
応永15年(1408)3月に後小松天皇の北山第行幸を迎えるも、5月6日に北山第で急死した。享年51。法号は鹿苑院天山道義。
死後ただちに朝廷から太上法皇の尊号宣下があったが、幕府の長老斯波義将の意見で義持から辞退を申し出て撤回された。
後嗣には後小松天皇の北山第行幸に同席を許されて異例の累進を遂げた義嗣が有力視されていたが、これも斯波義将のはからいで足利氏の家督は義持の嗣ぐところとなった。正室の康子には実子がなかったらしく、義持とそのあとを継いだ弟・義教の生母は側室・藤原慶子(三宝院坊官安芸方眼の女)で、他に慶子の妹の量子や加賀局(実相院坊官長快法印の女)・春日局(摂津能秀の女)・藤原誠子・高橋殿(西御所)・池尻殿など多くの側室がいたことが知られている。男子には義持・義嗣・義教のほか、禅僧友山清師・虎山永隆・仁和寺法尊・大覚寺義昭・梶井義承らがあり、女子に大慈院聖久・同聖紹・入江殿聖仙・法華寺尊順・光照寺尊久および宝鏡寺主・摂取院主などがいる。
三管領・四職をはじめ幕府の職制が整備され、五山十刹の制が成ったのも義満の時代であった。
義満はまた公家文化の愛好者でもあった。義満は当代一の文化人と称せられた二条良基から宮廷内における出処進退や和歌・連歌・管絃・鳥合・花合などに至る公卿の教養の手ほどきを受けているが、義満の公家文化愛好を反映して、朝廷の諸儀式をはじめ、和歌・連歌・舞楽・蹴鞠の会が盛んに催され、猿楽などもしばしば興行された。
また義満の禅宗信仰や中国文化の尊重から宋元名画の蒐集が盛んに行われ、五山文学が最盛期を迎え、さらには内裏をはじめ相国寺や室町第、金閣や鹿苑寺の名で著名な北山第が造営されるなど、義満を中心として文化的にも見るべきものが多く、この時期の文化を北山第に因んで北山文化と称している。