周防・長門・石見国の守護を兼ねる大内義弘は、九州探題の今川了俊に協力して九州南朝勢力の駆逐に功績を挙げ、豊前守護職を得た。そして康応元:元中6年(1389)3月には安芸国厳島に参詣した将軍・足利義満を周防国に迎えて歓待し、帰洛する義満に随行して上洛して以来は専ら在京して幕府に忠勤を励み、明徳2:元中8年(1391)末の明徳の乱においては勇戦してその武名を知らしめた。その行賞において和泉・紀伊国の守護職を新たに与えられ、前述の4ヶ国と併せて6ヶ国の守護職を保持することとなったのである。
さらに明徳3:元中9年(1392)閏10月に南北朝合一が成っているが、これにも義弘の多大なる尽力があったともいい、義弘は義満よりこれらの功績を賞され、一族に準ずるという破格の待遇で幕閣に迎え入れられたのである。
応永2年(1395)閏7月に今川了俊が九州探題職を解任され、その後任として渋川満頼が翌応永3年(1396)4月頃に筑前国に入部しているが、これを契機として九州には再び戦乱が起こり、その鎮圧のために義弘も応永5年(1398)10月に京から差し下された。義弘はこれを平定するも、その後に京都へと戻ろうとはしなかった。そのため義満は数度に亘って使者を送って上洛を促し、義弘は応永6年(1399)10月13日に至って和泉国の堺まで上ってきたが、それは多数の軍勢を率いての東上であった。
義弘は堺に来たものの、そこから動こうとはしなかった。京都では「義弘謀叛」の噂も飛び交い、これを憂えた青蓮院尊道法親王(後伏見天皇の第十一皇子)は使者を遣わして上洛を勧めたが、義弘は「畏怖することがあるため、上洛するわけにはいかぬ」と答えるのみであった。
義弘が軍勢を率いて来たのは無論、幕府との交戦に備えてのことであるが、この時点ではまだそこまでの覚悟を決めていなかったと思われる。義弘が幕府との対決を意識するようになったのは、義満が自分を滅ぼそうとしているとの疑念を持っていたからである。
10月27日、義満は正式の使者として禅僧の絶海中津を派遣し、義弘の説得にあたらせた。
義弘が絶海中津に語ったところでは、了俊に従っての九州平定戦、明徳の乱における内野の合戦、南北朝合一への尽力、了俊離任後の九州の騒乱の鎮圧など、数々の忠節を尽してきたが、それにも関わらず義満は密かに九州の少弐・菊池氏と通じて義弘の退治を命じたこと、紀伊・和泉を取り上げようとしたこと、少弐氏との戦いで戦死した弟・満弘に恩賞の沙汰がないこと、京都に召し寄せて討ち取ろうと企んでいたことなどを挙げ、総じて義満がこれほどに義弘を憎んでいるからには上洛するわけにはいかない、訴えたのである。
これに対して絶海中津は義弘の疑念にひとつひとつ答えたが義弘はこれを容れず、「御政道を諌めようと、鎌倉殿(鎌倉公方・足利満兼)と申し合わせており、今仰せに従って上洛すれば、その約束を破ることになる。来月2日、鎌倉殿のお供をして参洛いたそう」と言い放って席を立ち、ここに交渉は決裂したのであった。
義弘が、義満あるいは幕府が自分を滅ぼそうとしていると思った理由は幾つか考えられるが、そのうちの一つとして義満の権力強化があげられる。
義弘は義満の安芸国厳島参詣を機にその幕下となったが、この時期は義満も権力掌握の途上であり、諸大名と緊密な関係を築きながらも諸大名を束ねていく必要があった。しかし明徳2:元中8年(1391)末には威勢が強大になりすぎた山名氏の勢力削減に成功し、翌明徳3:元中9年(1392)閏10月には南北朝の合一が成ったことで、将軍としての権威が増大した。
政界においては応永元年(1394)末に将軍職を辞して子・義持に譲るも未だ実権は握っており、その直後には太政大臣に任じられて公家の極官に昇り、公武の権力を掌握。そして応永2年(1395)6月にはこれを辞して出家し、自らを法皇になぞらえた絶対者として君臨するようになった。
義弘が義満に誼を通じてからの10年間のうちに義満の存在は武家の棟梁から、人臣の超越者へと変貌をとげたのである。義弘が絶海中津に語った「御政道」への疑義が真意だとすれば、この義満の在りようは義弘にとって容れ難いものであったであろう。
また、朝鮮との貿易をめぐる反目もその一つとされる。
今川了俊が九州探題を更迭されたのは、朝鮮との貿易を了俊がほぼ独占していたことが理由の一つと目されており、了俊が九州を去ったあとには実質的に義弘が朝鮮との交渉にあたるようになり、倭寇の禁止と引き換えに朝鮮貿易の実権を握るようになっていた。このため、義弘は了俊と同じ轍を踏むことを恐れていたとも思われるのである。