後醍醐天皇(ごだいごてんのう) 1288〜1339 (1/2頁)

第96代天皇。正応元年(1288)11月2日、第91代天皇であった後宇多上皇(大覚寺統)の第二皇子として誕生。母は藤原(五辻)忠継の娘・忠子(談天門院)。
幼時から英邁の誉れが高く、和漢の学に通じ、とりわけて宋学(朱子学)の名分論に深く共鳴したと伝わる。
正安4年(=乾元元年:1302)6月16日に15歳で親王宣下を受け、嘉元元年(1303)12月20日に元服。諱は尊治。
当時の皇位は持明院統(第89代後深草天皇の系統)と大覚寺統(後深草天皇の弟で第90代亀山天皇の系統)の両統迭立となっていたことから、徳治3年(=延慶元年:1308)8月に異母兄で第94代の後二条天皇(大覚寺統)が崩御すると9月19日に第95代花園天皇(持明院統)の皇太子となり、文保2年(1318)2月に花園天皇の譲位を受けて践祚、同年3月29日に即位して第96代の天皇となった。しかし治天(実権者)である後宇多上皇の企図するところは嫡孫・邦良親王(後二条天皇の皇子)の一日も早い践祚であり、後醍醐天皇の践祚はそれまでの中継ぎのためであった。
後醍醐天皇の皇太子には後宇多上皇の意向によって邦良親王が立てられ、持明院統も鎌倉幕府を後ろ盾にして第93代後伏見天皇の皇子・量仁親王(のちの光厳天皇)の擁立を窺っており、いずれにしても後醍醐天皇が自分の皇子に皇位を伝える途は閉ざされていたことに加え、皇位継承者の選定や譲位の時期も鎌倉幕府や関東申次・西園寺実兼の意向に拠るところが大きかったこともあり、これが後醍醐天皇を討幕に向かわせる一因になったとみられる。
元亨元年(1321)12月の後宇多上皇の院政廃止にともなって後醍醐天皇の親政が開始されると、第60代醍醐・第62代村上の両天皇時代の『延喜・天暦の治』を理想として朝廷政治の刷新を目指し、記録所(主に訴訟を扱う機関)の設置、洛中酒鑪役(洛中の酒屋に対する課税)・神人公事停止令(洛中の寺社権門所属の神人の本所に係る諸公事を免除)・洛中の米価や酒価の公定令・関所停止令などの政策を打ち出したが、それは天皇の独裁制を強めるものでもあった。
この間にも側近として登用した日野資朝・日野俊基らを中心として『無礼講』と称する会合や種々の読書会を通じて同志の結集を図り、討幕の機会を窺っていたが、後宇多上皇が元亨4年(=正中元年:1324)6月に逝去したことで討幕の意思を抑止するものがなくなったとみられ、その3ヶ月後には討幕の計画が露見、関与した者が六波羅探題によって逮捕された(正中の変)。
このときは後醍醐天皇自身は処分を免れたが、正中3年(=嘉暦元年:1326)3月に邦良親王が没したのちに鎌倉幕府が次の皇太子を量仁親王に定めると、譲位を迫られることに危惧を抱いて再び討幕の策動を始める。
皇子の尊雲法親王(のちの護良親王)と尊澄法親王(のちの宗良親王)を天台(延暦寺)座主に据え、元徳2年(1330)には天皇自ら南都(奈良興福寺)と北嶺(比叡山延暦寺)に行幸するなどして宗教権門との連携を深める一方で、日野俊基らに命じて幕府に批判を持つ武士に討幕を説かせるなど隠密裏に準備を進めていたが、今度の計画も元徳3:元弘元年(1331)5月に至って吉田定房の密告から幕府の知るところとなり、身辺に危機を感じて8月に京都を脱出してのち笠置山に拠って抵抗するも9月には捕えられて六波羅探題に幽閉され、替わって量仁親王が践祚して光厳天皇となり、10月には三種の神器も後醍醐天皇から光厳天皇に渡されている。そして翌元徳4(=正慶元):元弘2年(1332)3月に隠岐国に配流されたのである(元弘の変)。
しかし、潜行した護良親王の発する令旨や後醍醐天皇が密かに下した討幕の綸旨を受けて、同年の冬には護良親王が吉野に、楠木正成が河内国赤坂城に挙兵したのをはじめとして、翌正慶2:元弘3年(1333)1月には赤松則村(円心)が播磨国に挙兵するなど、討幕に向けた動きが続々と起こり始めた。

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