石塔義元(いしどう・よしもと) ?〜?

奥州総大将・石塔義房の子。石塔頼房の兄弟。初名は義元、のち義憲と称す。「尊卑分脈」「系図纂要」などには義基あるいは義元とあり、官途は左馬助であるが、「相馬文書」「飯野文書」等にある「左馬助義元」と「左衛門佐義憲」の花押が一致することから、義元(義基)と義憲は同一人であろう。
建武4:延元2年(1337)、父の義房が足利尊氏より奥州総大将に任じられて陸奥国に下向するに際して随行しており、康永2:興国4年(1343)より陸奥国での活動の事跡が見える。
康永4(=貞和元):興国6年(1345)8月に京都で行われた天龍寺の落慶供養に、父とともに参列している。ところがその直後、幕府は奥州総大将の義房に代えて畠山国氏と吉良貞家の両名を奥州管領として置くとする奥州の新しい支配体制を定め、義房は奥州総大将を解かれたのちには東国に戻っているが、義元は再び陸奥国に下向し、南奥の飯野氏や相馬氏を味方につけ、文和3:正平9年(1354)6月に多賀国府を急襲して吉良満家(貞家の子)を追い落し、国府を占拠した。
しかし翌月には伊達氏や和賀氏らの援助を受けた満家によって国府を奪還され、義憲は本拠の玉造郡赤栄山(別称を三条山、葉山)に引き籠もった。
その後は南朝方の国人領主の支援を得て再挙を図ろうとした形跡がうかがえるが、大きな動きとはなり得ずに没落したようである。