長宗我部国親の四男。長宗我部元親の実弟。通称は弥九郎。名を親益とも。
島氏の名跡を継いで島弥九郎と名乗る。
永禄7年(1564)頃、兄の元親は安芸国虎の打倒を考えており、その姻戚である一条兼定を懐柔するため、弟の弥九郎を人質として兼定のもとに送って麾下となることを申し入れているが、この親房のことであろう。しかしこれが履行されたかは不詳である。
病気がちで身体が弱く、元亀2年(1571)の春に摂津国の有馬温泉に療養に赴く海路の途次、阿波国海部の那佐湾で風待ちをしているところを海部城主・海部友光(宗寿)の軍勢に襲われて討死した。
長宗我部氏の本宗は元親の子・盛親が大坂夏の陣で西軍に与したため断絶となるが、この親房の子・親典(通称を五郎左衛門)が土佐国に入部した山内一豊に仕え、江戸時代を経て現在に至るまで長宗我部氏の命脈を残した。