上杉景勝は越後国7郡で45万石、信濃国の川中島4郡で18万石、佐渡国3郡で14万石、出羽国の庄内3郡で14万石、計91万石を領して越後国春日山城に拠る大名であったが、慶長3年(1598)1月、羽柴秀吉より陸奥国会津への転封を命じられた。佐渡・出羽国の所領はそのままで、越後・信濃国の所領に替えて陸奥国会津で92万石を委ねられ、120万石の大大名となったのである。
畿内に出仕していた景勝は新しい領国の統治のために3月6日に京都伏見を発ち、越後国を経て24日に会津若松城に入った。その後は新領地での体制づくりに忙殺されていたが、8月18日に秀吉が没したことを受けて上洛、葬儀や秀吉死後の政務などを処理したのち、会津に帰着したのは翌慶長4年(1599)8月22日のことであった。
この間の中央の情勢においては、秀吉に続いて慶長4年閏3月に前田利家が没すると、徳川家康が専横を揮いはじめていた。
家康の企図するところは、権力の掌握である。天下統一を成し遂げた秀吉は、幼少の子・豊臣秀頼にその政権を譲り渡すために五大老・五奉行の制度を設け、大老による合議制で政権を運営する反面において有力者を互いに牽制させあうことで抑止力を生じさせており、家康も五大老のひとりとして豊臣政権に組み込まれていた。
秀吉のあとを継いだ秀頼はまだ8歳の少年であり、そして豊臣家の柱石であった前田利家も没し、格・実力において家康に勝る者はなかった。あとは勢力を拡大するための大義名分だけである。
家康は、利家の死没直後に豊臣氏の忠臣・石田三成と福島正則・加藤清正らの抗争が勃発すると、これに介入して三成を隠退させ、さらには大坂に出仕していた他の大老を帰国させて単独で政務を取り仕切る体制を作り上げた。景勝の帰国も、家康の勧めによるものであった。
そして冬頃には前田利家の嫡男で大老職を継いでいた前田利長を屈服させ、次の標的に据えられたのが上杉氏だったのである。
景勝は秀吉死没後に上洛していたことで遅延していた道路・橋梁・城郭などの整備、浪人の登用などによる軍備の拡充といった領国経営に邁進していたが、この急速な国力増強に近隣領主らは危惧を抱きはじめたのである。とくに出羽国角館城主の戸沢政盛や上野国館林城主の榊原康政、上杉氏が会津に移ったあとに春日山城主となった堀秀治の家老・堀直政らはこれらのことを家康に報告している。さらには慶長5年(1500)3月11日の夜に上杉家臣で越後国津川城主であった藤田信吉が出奔し、江戸の徳川秀忠を通じて上杉氏の謀叛と報じた。このとき、栗田刑部も藤田と意を通じて脱走したが、途中で上杉軍の追討を受けて一族みな殺害されたという。
この2日後の13日、会津若松城において景勝の養父であった上杉謙信の23回忌の法要が営まれた。これには領内各地から主な将士が参列し、法要の終了後には反家康の決起大会となったであろうとも言われている。そして3月18日からは若松城が手狭であるとして、若松城西方の神指原に新城(神指城)の建造を始め、6月1日には本丸と二の丸の大半を完成させている。