文禄の役 (2/3頁)

4月12日、小西・宗らの第1軍が兵船7百余艘で対馬大浦を発し、朝鮮の釜山浦に入った。翌13日には上陸、釜山城を守っていた鄭撥をわずか3時間の戦闘で討って城を落としている。以後、次々に上陸した秀吉軍は3つの道に分かれて国都・漢城に向かう。日本軍は圧倒的な戦力で無人の野を行くが如く進軍し、5月3日には第1軍・第2軍が漢城を占領した。
日本軍は軍勢も多く、装備面でも勝っていたことがこの快進撃の要因であった。当時の朝鮮軍の主力部隊は騎馬隊であったが、日本軍は射程に勝る鉄砲隊を擁し、これを大いに打ち破った。また白兵戦における日本刀の切れ味は鋭く、この主力兵器の前に朝鮮軍はことごとく壊滅させられたのである。さらに付け加えるなら、日本はつい先頃まで争乱の時代であった。渡海した軍勢はその中を生き抜いてきた、戦闘経験の豊富な精鋭集団であったということも一因であろう。
このような破竹の進撃の中にあっても、小西行長は講和の道を探っていた。行長の出自は商人であり、海外貿易においても利を上げていた。もとより海外侵攻には反対であったし、和平が保たれて貿易が再開すれば、実利も上がるのである。
行長は講和の会談の用意があることを朝鮮王朝に伝えようとするが、使者が捕えられたりするなどしたため、ついに和平交渉もないままに漢城が陥落するに至ったのである。
漢城陥落に先立つ4月30日、朝鮮国王は避難のために漢城を離れた。目的地は平壌である。この後、漢城市内の下層民らが略奪・放火などの狼藉に及んだ。これにより朝鮮李王朝200年に蓄積されてきた歴代の財宝や書籍、貴重な歴史記録などが灰燼に帰したという。
漢城を占領したのち、小西行長は国王をさらに追って平壌へと向かい、加藤清正は咸鏡道(ハムギョンド)方面へと進軍。
秀吉はそうした緒戦の快進撃に気をよくし、5月26日付で関白・秀次に朱印状を与え、その中で大陸占領後の計画を発表している。その内容は、後陽成天皇を北京に迎え、豊臣秀次を明国の関白とし、日本の関白には羽柴秀保や宇喜多秀家をおきたい、とするものであった。事実、占領後の地域では急速な日本化が進められ、増田長盛などは朝鮮の人々の姓名を強制的に日本名に改めさせたり髪型を日本風にさせたり、(安国寺)恵瓊は朝鮮の子供たちに「いろは」を教え込んだりしていたという。
小西行長は平壌に到達する直前、再度講和を試みた。日本側は「道を避け、遼東(明国)に向かう道を開けるように」と主張したが、朝鮮側は「明は朝鮮にとって父母にも等しい国。日本に従うわけにはいかない」と徹底抗戦を主張、講和は不首尾に終わった。
この交渉ののちに朝鮮国王は明の遼東に接する義州へと落ちて行き、小西隊の進撃によって6月15日に平壌も陥落したのである。
咸鏡道に侵攻した加藤清正は海岸伝いに北上し、会寧で2人の王子を捕えることに成功した。

しかし、占領地における統治は芳しくなかった。何しろ、言葉が通じないのである。通訳や言葉の通じる者もいるが、数が足りないのである。そのような状況のままで進軍を続けたために、占領した土地も拠点として充分に機能しない。兵站線が延びていくばかりである。占領地の住民は日本兵を恐れ、集落を離れたり山の中に隠れたりした。それを慰撫しようにも言葉が通じないのである。住民はゲリラ的な活動を始め、日本軍は武力でそれを鎮圧しようとする。対立は深まる一方である。このような状況であったために占領地では農耕が行われず、食糧欠乏の危機が迫っていた。そうなると日本軍の兵士にも略奪を行う者も増加し、集落は荒れ果てる一方だったのである。
日本軍は陸路で進撃する軍勢の補給線を確保するため、制海権の掌握にも乗り出していた。日本軍の水軍を率いるのは九鬼嘉隆脇坂安治加藤嘉明藤堂高虎らである。緒戦の巨済島近辺の多島海での海戦では日本軍が優勢であったが、5月になって朝鮮全羅道水軍の李舜臣が指揮を執るようになると戦況は一変する。朝鮮水軍の軍船は大きく堅固で、火力で勝っていたのである。小銃では日本の方が優れていたが、大砲類は朝鮮側の方が優れていたという。日本水軍は、この大砲によってことごとく沈められていったのである。さらに7月9日の閑山島沖の海戦において、日本水軍七十余艘の軍船が朝鮮水軍六十余艘によって59艘を失うという大敗を喫し、その結果、海峡の制海権を奪われたために補給線確保すらできないという状況になったのである。

5月の漢城陥落の報は、その半月後には明国の北京にまで届いていた。明の朝廷では、日本の進撃があまりにも早かったために、朝鮮が日本に協力しているのでは、と疑う声もあったようだが、とにかく5千ほどの軍勢を派遣して朝鮮の救援に向かわせることにした。6月下旬に遼東を発向した明の軍勢は7月19日より平壌に駐留する日本軍に対して攻撃を開始した。戦況は日本軍が優勢であったようである。8月になると講和交渉が持ち上がり、その間は一時休戦ということになった。
11月に至り、明国皇帝よりの回答がもたらされた。その内容は「占領した土地や城、捕えた2人の王子を解放して撤兵せよ」とのことだった。同時に明国より新たに軍勢が派遣され、ここに明も日本との戦いに参戦することになったのである。
これにより戦線はますます泥沼化、各占領地においては義兵と呼ばれる朝鮮民衆の激しい抵抗にあい、戦いの苦しさは増す一方だった。
翌文禄2年(1593)1月7日、明の李如松を総司令官とする大軍が平壌を包囲した。明軍は4万の兵を擁し、大砲をもって激しく攻め立てる。それにひきかえ、平壌を守る小西隊は1万である。必死に抵抗するが打ち破られ、平壌を捨て、漢城へ向けて凍てついた大同江を渡って敗走した。
季節は1月、真冬である。朝鮮の冬は、日本のそれよりもはるかに厳しい。食糧難に加えておりからの寒気によって凍傷にかかる者も多く、鉄砲隊も用を成さなかったといわれる。しかも日本軍は草鞋を履いていたため、凍傷によって足の指が落ちる者があとを絶たなかったという。漢城にたどり着く前に命を落とす者も多かった。

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