享徳(きょうとく)の乱 (2/2頁)

6月の中旬になると今川範忠が成氏不在の鎌倉に攻め入った。今川勢は鎌倉を奪取することに成功したが、この戦闘の際に街に火を放って鎌倉に留め置かれた守衛軍を攻め立てたために鎌倉は「亡所となり、田畠荒れ果て」たという。
鎌倉が陥落したことにより、上杉勢を追撃して北関東に在った成氏は鎌倉を捨て、以後は下総国古河に拠ることになったために古河公方と呼ばれることになる。古河の周辺には野田・簗田・佐々木などの直臣を配して防衛網を布き、岩松・結城・小山・宇都宮・千葉などの豪族層の支援を受けて長期戦に備えた。
対する上杉方は利根川南の武蔵国五十子の地に成氏攻めのための本陣を構え、幕府派遣の将士もここに布陣した。さらに松山・河越や岩付・江戸など武蔵国各地の諸城を築き、防備を固めた。

また長禄2年(1458)、幕府は成氏に対抗するために8代将軍・足利義政の弟である足利政知を新たな関東公方として派遣したが、現地の上杉方は政知の鎌倉入りを望まなかったため、伊豆国の堀越に居を構えて堀越公方と呼ばれるに至る。
乱はほぼ利根川を挟んだかたちで戦線が膠着化するなか、寛正7年(=文正元年:1466)に上杉房顕が五十子陣中で病没したことを受けて越後守護・上杉房定の子である上杉顕定が関東管領となり、房定は以前にも増してしばしば関東に出陣して顕定を支えた。ところが、上杉方を支援していた幕府においても細川勝元と山名宗全を両極とした2派に分かれて分裂を起こし、文正2年(=応仁元年:1467)に武力衝突が発生した(応仁の乱)ため、関東・京都ともに争乱状態となったのである。
この間、京都では享徳・康正・長禄・寛正・文正・応仁・文明と6度の改元が行われているが、幕府に反抗する成氏のもとには朝廷や幕府からの伝達がなく、成氏も幕府と全面対決する姿勢を内外に示すために中央政府の元号使用を拒否した。そのため、成氏方勢力には享徳の年号を使用し続けた発給文書が見られる。

文明3年(1471)5月には上杉勢が大攻勢をかけて成氏を古河から逐い、その翌年には成氏勢が古河を奪還、文明5年(1473)11月には逆に成氏勢が上杉勢の拠っていた五十子陣を攻撃するなど一進一退の攻防が続けられていたが、同年6月の山内上杉氏の家宰・長尾景信の没後、山内上杉顕定がその後任に景信の弟・総社長尾忠景を指名したことにより、これを不服とした景信の嫡男・長尾景春が居城である上野国白井城に退くという事態になった。
さらにはこの景春が文明8年(1476)6月に武蔵国鉢形城に拠って決起し、翌文明9年(1477)1月には五十子の陣を急襲(五十子の合戦)。五十子に在陣していた諸将らは不意を衝かれて抵抗できず、各方面に退去したため五十子陣は解体した。この景春に、かねてから上杉氏への不満を持つ中小領主らも与同したため上杉陣営を大きく揺るがす内訌となり、関東の情勢は新局面を迎えることとなった(長尾景春の乱)。
新たな勢力として立った景春は成氏と結んで上杉氏に対抗するが、上杉勢が扇谷上杉氏の家宰・太田道灌の活躍によって文明9年4月の武蔵国江古田原・沼袋の合戦、5月の武蔵国用土原の合戦において景春勢を破ったことで勢力を大きく盛り返し、景春の勢いは衰退していくこととなる。
それを受ける形で文明10年(1478)1月には古河公方と上杉氏の間で和睦することが約され、さらに文明11年(1479)頃より幕府と鎌倉府においても和睦が模索されるようになり、文明14年(1482)11月末に至って講和が成立(都鄙合体)し、享徳の乱は終息するに至ったのである。

この享徳の乱が起こるに至った背景には、古河公方(関東公方)と幕府を後ろ楯とした関東管領・上杉氏による権力闘争があり、先に起こった永享の乱と同じ構図として見ることができる。しかし、この乱においては古河公方と幕府・関東管領という両勢力の闘争に加えて、鎌倉府分国に属す国人領主らの内紛もが絡みつき、さらには堀越公方や長尾景春といった新勢力の参入もあったために一層の複雑・長期化を見ることになった。
この内乱の進行とともに、豊島氏・千葉氏といった国人領主や中小領主層においても主家と庶家に分かれて抗争に及ぶという二極化が進行し、そこに公方または上杉氏が肩入れをしたために政治的あるいは地域的な分裂が起こり、都鄙合体後にも遺恨を残す結果となった。
これは全国規模で分裂闘争が行われた応仁の乱と同質のものであり、それより10年以上早く関東地方で発生したこの享徳の乱は、まさに戦国動乱時代の先駆を成すものということができよう。