嘉吉元年(1441)6月、将軍権力を強めて専制政治を布いていた第6代室町幕府将軍・足利義教が横死した(嘉吉の変)。義教死後の将軍職は長子・足利義勝が継いだが、その義勝も嘉吉3年(1443)に10歳で病死。そのあとは義勝の弟・足利義政が8歳で8代将軍として立てられた。
こうした経緯で義教の死後は義勝・義政と幼少の将軍が続くこととなったが、形式だけの将軍に政務を執れるはずもなく、幕政の運営は将軍を補佐する細川・畠山氏や山名氏などの有力守護大名に委ねられるところとなり、その結果として幕府政治を主導する実権はこれら有力守護大名へと移行していったのである。とりわけて管領の権威は増大することとなり、実質的には将軍よりも管領が幕府第一の実力者と目されるほどのものであった。
他方、諸国の守護家はその権益に与ろうとしたため、あるいは家中における家督相続などによる対立を有利に運ぶためにそれぞれが将軍近臣や有力大名に随従するようになり、一部の有力大名を頂点とする系列化が急速に進むこととなった。
宝徳元年(1449)に元服した義政は征夷大将軍に就任したが、この頃には将軍近臣の発言力は増大しているばかりか、義政の側室・今参局や妻・日野富子などまでもが義政に意見して政治に介入するところとなり、義政との衝突を繰り返した。ために義政は政治への熱意を喪失していく。
寛正6年(1465)、日野富子に義尚が生まれたことから将軍職の相続問題が持ち上がる。
この頃の義政には自ら幕政を執ろうという気概は既になく、隠退して政治の第一線から退くことを望んでいたという。義政はこの前年の寛正5年(1464)、出家して浄土寺の門跡となって義尋と名乗っていた弟を次期将軍に指名して嗣子とし、彼を還俗させて義視と名乗らせており、その際の後見人としては細川勝元を指名していた。しかし、実子である義尚に跡を継がせたいと考えた富子は、四職家のひとりである山名宗全を後ろ盾に頼んだのである。
山名宗全は中国地方のうちで8ヶ国を領し、細川勝元に匹敵する大大名だった。はじめは勝元と協調路線を進めていたが、嘉吉の乱以後に赤松氏の処遇をめぐって対立するようになっていたのである。
またちょうどその頃、有力守護大名の畠山氏では畠山政長と畠山義就の、斯波氏においては斯波義敏と斯波義廉による家督争いがもちあがっており、これらが幕府内の政争と絡みあって細川勝元・斯波義敏・畠山政長の連合と、山名宗全・斯波義廉・畠山義就の連合とが対立することになったのである。
乱の発端は、畠山政長と畠山義就の武力衝突であった。山名派の圧力によって管領を解任されたうえに屋敷を義就に明け渡すよう命じられた政長は、文正2年(=応仁元年:1467)1月17日に京都万里小路の自分の屋敷に火をかけ、上御霊社に立て籠もって挙兵した(上御霊社の戦い)。
このとき義政は、これを両畠山家の私闘として、他の大名が双方に加担することを禁じた。しかし義就方には義政の命令を無視して宗全と義廉が加勢し、翌18日には義就勢が攻めたてたので、戦いはこのまま一気に細川勝元と山名宗全の対決にもちこまれるかと思われたが、勝元はこのとき静観するにとどまり、そのため政長は翌19日未明、自ら上御霊社の拝殿に火を放って遁走してしまったのである。