応仁の乱 (2/3頁)

政長が離脱したことによって山名方が京都を制圧するところとなり、新管領には山名方に属す斯波義廉が任命された。ところが山名方の大名が軍兵の大半を自国に帰して戦勝祝いにうつつを抜かしている間、細川方は着々と戦備を固めていたのである。
上御霊社の戦いから4ヶ月のちの5月下旬、細川方は将軍御所を御所巻き(軍事的に圧迫して将軍を脅迫すること)にすることを目論んで行動を開始、26日に両陣営が再び激突する。『上京の戦い』の始まりである。この上京での戦いは26日早朝から27日夕刻まで激戦が続けられ、その戦火によって上京のほとんどが焼き尽くされたという。
この戦いは双方の軍勢がそれぞれ寺や自らの京都屋敷を陣地とし、その陣地を取ったり取られたりという、まさに“陣取り合戦”であった。そのため、互いに相手の陣地に火をかけ合うというのが戦いのすべてであった。このため市中は火の海となり、この戦渦に便乗した略奪が横行した。とくに酒屋や土倉などの金融業者が狙われたという。
この上京での戦いは周到に準備を進めていた細川方がやや優勢に展開し、山名方は防衛線を後退させることを余儀なくされた。
ついで、細川方が抑えた御所には後花園上皇・後土御門天皇も迎え入れられた。将軍や天皇という権威を推戴すれば即ち、官軍という名分が得られることを考慮してのことであろう。義政を味方につけた勝元は、山名宗全追討令を出させた。このとき義政は将軍旗を勝元に与えたが、このことによって中立性と将軍としての権威を自ら放棄したことになり、以後も続く戦いを停めさせる力を失ったのである。しかも将軍が勝元に与したことで、細川方が官軍、山名方が賊軍という位置づけが明確に成されたのである。
しかし6月になると義就の子・畠山義豊が、宗全の領国からも3万ともいわれる軍勢が援兵として到着する。さらには西国最大の大名・大内政弘が山名方として参戦を表明したことで、一気に士気が高揚した。対する勝元も各地の守護大名に招集をかけた。これに応じて集まった軍勢は山名方で11万、細川方で16万ほどという。勝元が相国寺に本陣を構えたことに対し、宗全の本陣は西に位置していたために西軍、細川方は東軍と呼ばれた。現在の京都の西陣は、このときの宗全の本陣があったところなのである。

上京の戦いでによる巻き返しの成功、そして政治戦で大義名分を得たことで精神的にも優位に立ったかに見えた東軍陣営であったが、思いもよらぬ事態が持ち上がる。総大将のひとりとして推戴されていた足利義視が8月23日に東軍を離脱し、伊勢国へと逐電したのである。この義視の離脱は将軍職の継承問題によるものであるが、東軍の士気は少なからず衰退した。この義視は義政に諭されて東軍に復帰するが、それは翌年になってからのことである。
一方、西軍への合力を表明した大内政弘の軍勢は兵庫を経て東寺口から入京して北上、義視の逐電と日を同じくする8月23日に船岡山に布陣した。
大内勢の到着によって勢いを得た西軍は9月1日に至って5万の大軍を投入して、東軍の武田信賢が守る三宝院に総攻撃をかけて陥落させた(三宝院の戦い)。ついで13日には畠山義就が土御門内裏を占領するなどの功績を挙げている。
また洛東でも一大合戦が行われ、南禅寺や青蓮院などの由緒ある寺々が壊滅的な被害を被り、東山一帯の様相が一変してしまったという(東岩倉の戦い)。
全般的な戦況は西軍有利のまま展開し、東軍に残された手札は花の御所と相国寺の一帯だけになった。西軍はさらなる攻勢に出るべく、侵攻を開始する。
10月3日、西軍が相国寺を攻め立てると一部の僧がこれに内応して放火、炎の中での激戦の末に東軍は退却した。この勝ちに勢いを得た西軍は花の御所の奪取をも目論むが、翌4日には畠山政長率いる東軍3千の軍勢によって反抗を受け、撤退する羽目になった。この相国寺をめぐる戦いで東軍は西軍の首8百を得たといい、西軍は東軍の首級を8台の車で運んだという(相国寺の戦い)。

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