この頃より徳川方と大坂方の間で小競り合いが始まっていたらしく、11月5日には徳川方の松平忠明・石川忠総らの兵が大坂方薄田兼相の兵と平野で交戦し、翌6日には大坂方が天王寺付近に放火、7日には徳川方の池田忠雄・池田利隆・森忠政・戸川逵安・有馬豊氏らが中島に進出している。
家康が大坂に向けて二条城を発ったのは11月15日で、17日には本陣の住吉に着陣、翌日には既に平野に布陣を終えていた秀忠や本多正信・藤堂高虎らと茶臼山で軍議を行っている。
このときには徳川方の大坂城攻囲態勢はほぼ完了していた。その陣立ては、南面に南部利直・前田利常・松倉重政・桑山一直・榊原康勝・古田重治・脇坂安元・寺沢広高・井伊直孝・松平忠直・藤堂高虎・伊達政宗らが陣取り、その後方には本営として茶臼山に家康、岡山に秀忠が控える。
西の船場方面には毛利秀就・徳永昌重・福島忠勝・浅野長晟・戸川逵安・山内忠義・松平忠明・蜂須賀至鎮・池田忠雄・稲葉典通・鍋島勝茂・石川忠総・池田忠継・森忠政・九鬼守隆・向井忠勝・千賀信親・小浜光隆・山崎家治・加藤貞泰・一柳直盛らが布陣。なお、この方面の攻め口には島津忠恒(家久)の部隊も布陣することになっていたが、兵が到らなかったために参戦は見送られた。
北側の天満口方面には有馬直純・立花宗茂・分部光信・本多忠政・有馬豊氏・池田利隆・中川久盛・加藤明成・松平康重・岡部長盛・能勢頼次・関一政・竹中重門・別所吉治・市橋長勝・長谷川守知・本多康紀・林武吉・宮城豊盛・蒔田広定・片桐且元・石川貞政・木下延俊・花房正成らが備えた。
そして東の平野川に向かっては本多忠朝・浅野長重・真田信吉・佐竹義宣・上杉景勝・丹羽長重・堀尾忠晴・戸田氏信・牧野忠成・秋田実季・本多康俊・植村康勝・小出吉親・松下重綱・仙石忠政・酒井家次・水谷勝隆・小出吉英らが固めた。
本格的に戦闘が始まったのは19日である。家康の命を受けた蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄らがこの日の未明に木津川口の砦を攻め、これを攻略した。また、幕府船奉行の向井忠勝や徳川義直・池田利隆らは伝法川口の新家を制圧。これにより、大坂城は大坂湾からの水上補給路を断たれることになる。
家康は堅固な大坂城を攻めるにあたり、力攻めにするよりも持久戦を用いることにした。大坂城西の船場方面を制圧して水上輸送路を扼したのもそのひとつであるし、付城を処々に築いて万全の包囲体制を固めることを企図したのである。その付城の構築予定地のひとつが大坂城東方の今福であり、26日にはこの地の争奪戦が行われ(今福・鴫野の戦い)、辛くも徳川方が勝利した。その3日後には博労ヶ淵(伯楽淵)や野田・福島などの要衝も徳川方の抑えるところとなり、大坂城包囲網は徐々に狭められていった。
緒戦から敗北を重ねていた大坂方にあって、目ざましい働きが光ったのは大坂城南の丘陵に『真田丸』を築いて防戦していた真田幸村であった。12月4日には前田利常・井伊直孝・藤堂高虎らの軍勢が来襲したが、地の利を生かした用兵で徳川方の兵をさんざんに討ち破ったのである(真田丸の戦い)。また12月17日の未明に、蜂須賀至鎮隊の中村重勝の陣所へ小規模ながらも夜襲を決行して鮮やかな勝利を収めた塙直之の活躍も徳川方に少なからず衝撃を与えている。
大勢としては徳川方が優勢に事を運び、12月初旬には家康・秀忠の本陣も住吉・平野からそれぞれ茶臼山・岡山へと前進させているが、大坂方が前線の砦を放棄して大坂城に籠ると戦線は膠着した。大兵団を擁する徳川方を以てしても、堅固な城壁と深く幅広い堀に守られた大坂城を攻めあぐねたのである。
無論、家康もこれは予見していたことで、軍勢を指揮して直接的に攻撃するその裏では大坂方武将に寝返りや投降を誘う密書を送ったり、和平交渉を持ちかけたりするなどして大坂方に揺さぶりをかけている。
家康は、本格的な戦闘が始まった翌日の11月20日より本多正純や京都の政商・後藤光次に命じて大坂城内の織田長益(有楽)・大野治長らに和議の交渉を始めさせていた。しかし大坂城内では淀殿をはじめとする強硬派の意見が依然として強く、和議に応じる気配は薄かった。そこで家康は新たに神経戦術を用いる。
徳川方は12月9日より毎晩時刻を決めて鬨の声をあげたり、鉄砲の一斉射撃を行ったりして城兵の睡眠を妨げる作戦に出た。この作戦は、当初は城兵の緊張を誘ったようだが回を重ねるにつれて夜襲ではないことを見抜かれ、しだいに効果は薄れていったようである。また、11日より大坂城南面に布陣する将に命じ、鉱山掘りの人夫を使役して地下道を切り拓かせるという『もぐら戦術』を開始させた。
果たしてこれらの作戦が功を奏したのかは不明であるが、15日には大坂城中から「淀殿を人質として江戸に送る代わりに、籠城する浪人たちに知行を与えて納得させるために秀頼の加増を願う」旨の申し入れがなされた。しかし家康はこれを蹴り、翌16日からは更に強硬な手段を用いる。それは、3百挺もの大砲による一斉砲撃であった。
この砲撃の効果はたちまちのうちに現れた。幕府の砲術家・稲富正直が大坂城の構造に詳しい片桐且元の指示を受けて行った砲撃は淀殿の居間の櫓を直撃し、淀殿の侍女7、8人を打ち殺したという。これによって強硬な主戦論者であった淀殿でさえ恐怖のどん底に突き落とされ、秀頼に和議を勧めるようになったという。
こうして和睦の機運は高まった。大坂方では城内の兵糧・武器弾薬などが欠乏していたことに加え、先述の一斉砲撃によって淀殿をはじめとする首脳部の意気が消沈して厭戦気分が漂い始めていたことから戦闘の終結を望む声が強くなった。
一方の徳川方においても、これ以上の長期に亘る滞陣は従軍諸将の負担と不満を増大させることが危惧されていた。14年前の関ヶ原の役は全国を二分しての戦いであり、これに勝利すれば敗軍の所領を恩賞として得ることができるという期待を持たせることもできたが、今回の戦役では仮に豊臣氏の全所領を没収したとしてもせいぜい65万石程度であり、それを分配しても高が知れている。そのため、徳川方諸将の大半にとってこの参陣は幕府に忠義を示すだけのものであり、負担の割には利益が少ないという空気もあったことも否めない。
また家康も、『総構え』と呼ばれる遠大かつ堅固な防衛線を有するこの大坂城を短期に攻落させることは不可能と考えていたようであり、開戦当初から大坂城の防御力を削ぐことに意を砕いていた。言い換えれば、大軍を用いて大坂方を大坂城に押し込め、硬軟両様の策を用いて大坂方の士気を挫き、和議に帰結させることこそが最大の目的だったのである。そしてまさに今こそが絶好の時期であった。
徳川方と大坂方の和平会談は12月の18日と19日の2日間に亘って行われた。使者は徳川方が本多正純と家康の側室である阿茶局、大坂方は淀殿の妹である常高院で、会談の場所は常高院の子で徳川方に属して参陣した京極忠高の陣営であった。
初日の会談では双方の主張に隔たりがあったのか不調に終わっているが、翌日の会談において家康の要求を全面的に通した形で交渉が妥結した。そのときに取り決められた講和条約は「大坂城は本丸のみを残し、二の丸・三の丸は破却する。淀殿を人質として関東に下向させる必要はないが、大野治長と織田長益が人質を提出する」とする3ヶ条に加え、大坂城の兵は譜代・新参の浪人を問わず処罰しないという付帯事項から成っていた。
翌20日には徳川方の砲撃も停止され、同日の夜から22日までにかけて誓書の交換や人質の提出が済まされ、ここに大坂冬の陣は決着したのである。