御館(おたて)の乱 (1/2頁)

天正6年(1578)3月13日、越後国の上杉謙信が没した。
武家の当主が没したのちに必ずといっていいほどに持ち上がるのが家督継承の問題だが、謙信が後継者を明確にしないままに急逝したため、上杉氏の次期当主をめぐる問題はことさら複雑であった。
謙信は妻帯せず、実子もないままにその生涯を終えたが、3人の養子があった。1人は北条氏康の子で、当時の北条氏当主・氏政の弟にあたる上杉景虎。また1人は謙信の姉の夫・上田長尾政景の遺児の上杉景勝。さらにもう1人は、能登国畠山氏を出自とする上条政繁。しかしこの政繁は養子というよりは人質のようなもので、上杉氏支流の上条上杉氏を相続して上条政繁と名乗っていたので、問題外である。
すなわち次期家督者はこの景虎と景勝に絞られ、この両陣営によって家督相続をめぐっての抗争が起こったのである。
さらにこの抗争は2人の争いのみならず、越後国内を二分する内乱へと発展していくことになる。

謙信の葬儀が執り行われた3月15日、景勝は「謙信公の遺言である」と称して謙信の居城であった春日山城の実城を迅速に占拠した(実城占拠の日には異説もある)。この実城とは金蔵・兵器蔵・米蔵などを備えた城の中枢区域、いわば城の本丸である。そして24日には自身が謙信の後継者であることを国内外に報じ、既成事実を作り上げたのである。
一方の景虎はこの実城に近い二の曲輪に居住していたが、景勝方の実城占拠に全く気づかず、一歩立ち遅れたことになる。
この両勢は5月5日に城下の大場村にて最初の武力衝突を起こしたが、春日山城内では、実城に拠った景勝方が眼下に見下ろす二の丸の景虎居館に向けて弓や鉄砲で威嚇攻撃を行った。圧された景虎は13日の夜になって妻子を伴って春日山城を脱出し、前関東管領・上杉憲政の居館である御館(別称:北河館)に立て籠もって景勝に対抗するに至った。
景虎が御館に拠ったことで、両陣営が近接する距離に拠点を構えて抗争するという構図となった。ここで展開の優劣を左右するのは、どれだけ多く外部からの援軍を動員できるかである。
景勝方には一門衆の上条政繁・山浦国清・山本寺孝長、刈羽郡の斎藤朝信・安田顕元、三島郡の直江信綱、蒲原郡の吉江信景(資堅)、揚北衆では本荘繁長新発田重家・竹俣慶綱らがつき、景虎方には一門衆の古志上杉景信・山本寺定長、頸城郡の堀江宗親、古志郡の本庄秀綱、刈羽郡の北条景広、蒲原郡の神余親綱、揚北衆では黒川清実・鮎川盛長、信濃国飯山城主の桃井義孝らが与した。傾向としては下越地方に景勝与党が多く、とくに揚北衆においては景勝派が多数であった。これに対する景虎は中越地方の有力領主の支持を多く得ただけでなく、陸奥国会津の大名・蘆名盛氏をも味方につけた。さらに景虎の実家である関東地方の大大名・北条氏や上野国厩橋城主・北条高広も景虎の後ろ盾となった。これにより、景勝方と揚北衆の連携を中越地方の領主らが断つと同時に蘆名氏が揚北地域(阿賀北:阿賀野川以北の地域)を牽制し、景勝の地盤である上田荘を含む魚沼郡を北条氏・北条高広が背後から脅かすという包囲戦略が現出したのである。

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