この間にも、諸国では東軍陣営と西軍陣営の抗争が始まっていた。
加賀国では8月に入ると大聖寺城の戦いや浅井畷の合戦が起こった。この加賀国での抗争は9月中旬にまで及び、このために東軍に与する北陸地方の大大名・前田氏の戦力が釘付けにされることとなった。
伊勢国では8月19日より西軍勢力の主力ともいうべき毛利秀元・吉川広家・鍋島勝茂らが、東軍に属した富田信高の居城・安濃津城を攻めており、25日には大軍を擁した西軍が無勢の安濃津城を開城降伏させている(安濃津城の戦い)。
信濃国においては西軍勢力となった真田昌幸が上田城に籠もっていたが、これを東軍の中山道軍を率いる徳川秀忠が攻めたが陥落させることができず、数日を空費したあげくに上田城攻略を諦め、美濃国へと軍勢を向けた(上田城の戦い:その2)。これが9月8日のことといわれ、結局、この軍勢は東海道軍との合流を果たせなかった。
近江国では、西軍に身を置いていた京極高次が9月3日に突如として東軍に転じ、居城の大津城に籠城した。この高次の行動は家康との密約に基づいたものとされている。高次の転身を知った西軍陣営は軍勢を差し向けるとともに慰留の使者を送ったが、高次が応じなかったため、8日より攻撃に踏み切ったのである(大津城の戦い)。
出羽国においても争乱が生じている。会津征伐軍の圧迫から解放された上杉氏が、東軍に与した最上義光領を侵攻するべく、9月9日より打って出たのである(出羽合戦)。
豊後国においては大友義統が8月中旬より旧領回復を企てる動きを見せていたものの、東軍に属した黒田長政の父・黒田孝高によって9月13日に鎮圧された(石垣原の合戦)。
伏見城を陥落させたのち、三成は8月9日に6千ほどの兵を率いて美濃国の垂井に到着、11日には大垣城を前線の防衛拠点と定め、ここに軍勢を集結させるよう指揮を執っていた。23日には大兵を率いた宇喜多秀家が参着したことによって意気が上がるが、翌24日には大垣城に近接する赤坂の地に、岐阜城を陥落させた東軍の先鋒隊・福島正則らの軍勢が現れる。この軍勢は大垣城に対峙し、家康の到着を待っているのであった。
その家康は9月1日に3万の軍勢を率いて江戸城を発向、6日には駿河国島田、11日には尾張国清洲を経て先鋒隊の待つ赤坂に向かっていた。西軍方においても、畿内や伊勢国にあった軍勢が5日前後より美濃入りするなど、双方が美濃国での激突を想定して集結しつつあったのである。
そして、14日の正午頃に家康が赤坂に到着した。それを知った三成は重臣・島清興に、大垣と赤坂の中間に位置する杭瀬川への出撃を命じた。この杭瀬川の対岸には東軍の一部が宿営しており、この軍勢を破って緒戦を飾ることで士気の鼓舞を図ったという。
清興は陽動作戦を用いて東軍の軍勢を破り、三成の期待に応えている(杭瀬川の合戦)。
その夜、「赤坂の東軍は大垣に抑えの軍勢を残して進軍し、佐和山城を攻めたうえで大坂に向かう」との情報をつかんだ西軍陣営は、大垣城に福原長尭以下7千5百ほどの守備兵を残し、それ以外の全軍をもって東軍の進軍を扼すために関ヶ原に出陣した。
しかし、これも家康の謀略であった。
兵の籠もる城を力攻めにするには籠城兵の10倍ほどの兵力が必要であるともいわれ、時間も要する。大垣城を力攻めにしている間に毛利輝元が軍勢を率いて参着すれば挟撃される危険もあり、さらには豊臣秀頼の出馬などあろうものなら家康は大義名分を失うこととなり、東軍が一気に瓦解するのは明らかであった。
これを危惧した家康は野戦に持ち込んで一気に勝敗を決することを図り、そのためにわざと佐和山城を攻めるという虚偽の情報を流し、西軍を大垣城から誘き出したのであった。
西軍が関ヶ原への進出を始めたという報を得た家康は、東軍の軍勢にも関ヶ原への出陣を命じたのである。
そして9月15日、ついに徳川家康と石田三成が雌雄を決することとなる関ヶ原の合戦が開戦した。
東軍7万4千、西軍8万4千ほどの軍勢が臨んだこの合戦は、はじめ互角の様相を見せていたが、西軍に属していた小早川秀秋が正午頃に東軍へ寝返ったことにより戦況が一挙に傾いて西軍は壊滅、この関ヶ原での合戦自体は9月15日の1日のみで勝敗が決したのである。
午後3時頃までには西軍の諸隊は関ヶ原から姿を消していた。家康は天満山の西南、藤古川の台地に本営を移し、そこで諸将を引見した。
西軍の敗因は従軍した諸将を掌握しきれなかったことにあり、寝返りが更なる寝返りを呼んで総崩れとなった。また、糾合した諸将の軍勢が分散していたことも誤算であった。大津城の戦いは15日未明に開城降伏したことによって決着したが、西軍1万5千の軍勢は近江国に足止めされていたことになり、田辺城においても、やはり1万5千の軍勢が丹後国に未だ張りつけられていたのである。
東軍は17日、佐和山城を攻めた。攻城軍は小早川秀秋以下、脇坂安治・朽木元網・小川祐忠ら合戦中に寝返った面々で、とくに後者の彼らは合戦の終盤になって寝返ったという汚名を雪ぐためであったのだろう、自ら佐和山城攻めを志願したという。
佐和山の城兵は2千8百で、三成の父・正継や兄・正澄が守っていたが、あえなく落城した。
また同日、西軍の拠点となっていた大垣城では相良頼房・秋月種長らが熊谷直盛・垣見家純・木村勝正らを殺害して東軍に投降を求め、その日のうちに開城している。