9月20日、家康は大津城に入城した。ここを仮の本営として、戦後処理を行うためである。
関ヶ原の合戦において石田三成らの軍勢を破ったとはいえ、大坂城には西軍総大将・毛利輝元がいる。そしてその輝元は、豊臣秀頼を戴いているのである。そもそもこの関ヶ原の役は豊臣政権の一重臣としてて企図したものである。家康はここで秀頼をも凌駕するつもりは毛頭なかったが、もしも輝元が秀頼の名の元に家康討伐の軍勢を興せば、家康は「賊軍」の汚名を着せられてしまい、共に関ヶ原を戦った東軍諸将さえをも敵に回すことになってしまうため、早々に秀頼と輝元を引き離さなければならなかった。
家康は大津入城に先立つ17日より黒田長政・福島正則・藤堂高虎ら東軍諸将に腹心の井伊直政・本多忠勝を加えて輝元との折衝にあたらせ、「この度の争乱の原因は石田三成らの逆心によるものであるから輝元の責任は問わず、毛利氏の所領も保証する」との条件で輝元に退去を承知させ、24日には大坂城を無血開城させることに成功したのである。
9月27日に大坂城入りした家康は秀頼と会見し、ついで西の丸を居所と定め、二の丸には秀忠を置き、それとなく大坂城を「占拠」したのだった。
関ヶ原の合戦ののちに消息不明となっていた西軍首脳の小西行長が捕まったのは9月19日、三成も21日に伊吹山中で捕えられ、23日には恵瓊も京都で捕まった。
三成・行長・恵瓊の3人が処刑されたのは10月1日のことであった。3人は洛中を車に乗せて引き回された末、六条河原の処刑場に運ばれて斬首された。しかもその首は三条大橋に晒されたのである。
ところで、家康はこの役後に大掛かりな戦後処理を行っている。西軍に与した大名87家の領地414万6千2百石を没収し、この没収地のほとんどは今回の役において東軍に与した旧豊臣系の諸大名や、徳川譜代の武将にも加増地として配分された。これによって徳川氏、また親徳川系大名の勢力基盤が飛躍的に拡大した。その反面、豊臣秀頼の国力が大きく削がれ、豊臣氏という一大名の規模にまで転落することとなった。
家康はこの争乱を巧みに利用することで、のちの徳川幕藩体制の基礎固めを公然と行ったといえよう。