支倉常長(はせくら・つねなが) 1571〜1622

伊達家臣。通称は与市・六右衛門。長経とも名乗った。山口常成の子であるが、伯父にあたる支倉忠正の養嗣子となった。
慶長13年(1608)頃には6百石ほどの所領を与えられていたことが確認できるが、父の犯罪に連座して所領を没収された時期もある。
ヨーロッパ諸国との貿易を望む主君・伊達政宗の命を受け、慶長遣欧使節として慶長18年(1613)9月15日に牡鹿半島の月ノ浦をサン=フアン=バプティスタ号で出帆、太平洋を横断してメキシコのアカプルコに入港。さらに大西洋を航海して慶長19年(1614)11月、スペインのマドリードに到着。翌慶長20年(1615)1月にスペイン国王フェリーペ三世に謁見、政宗からの書状を奉呈した。このときに洗礼を受け、洗礼名はフェリーペ=フランシスコ。
また、同年9月にはローマ教皇パウロ五世にも謁見している。このとき、ローマ市より公民権を贈られて貴族に列した。
復路はマニラ経由で長崎に到着、元和6年(1620)8月26日に仙台に帰着した。
しかしこの壮挙は、この航海の企画・同行した宣教師ルイス=ソテロは日本国内における布教を目的としたため、対して日本側はスペインやイタリアとの貿易を求めるための航海だったために複雑な経過をたどることとなり、結局は目的を果さなかった。なお、この頃より伊達領内ではキリシタン弾圧が始まっている。
帰国後の常長については正確なことは不明。
元和8年(1622)没。没年を元和7年(1621)とする説もある。