伊達政宗(だて・まさむね) 1567〜1636

『独眼竜』の異名で著名な戦国大名。出羽国米沢城主・伊達輝宗の嫡男。母は出羽国山形城主・最上義光の妹の義姫。幼名は梵天丸。通称は藤次郎。美作守・侍従・越前守・右近衛権少将・陸奥守・参議・従三位・権中納言。
5歳の頃に疱瘡を病んで右眼を失明する。そのために容貌は醜くなり、実母にまで邪険にされた。
天正5年(1577)に元服し、伊達氏中興の祖・(第9代)大膳大夫政宗の名を襲名した。天正7年(1579)に三春城主・田村清顕の女・愛(めご)を妻とし、12年(1584)10月に父・輝宗より家督を譲られた。
天正13年(1585)10月8日、二本松城主・二本松(畠山)義継の謀計にかかって輝宗が拉致されると、これを追撃して義継以下を討ったが、同時に父も殺された。その直後、陸奥国安達郡人取橋で蘆名・佐竹・岩城氏らの連合軍を破り(人取橋の合戦)、14年(1586)には二本松領を手中に収め、16年(1588)の郡山の合戦ののち、田村家中を掌握。天正17年(1589)6月には陸奥国会津の黒川城主・蘆名盛重(佐竹義広)を麻耶郡摺上原で一蹴(摺上原の合戦)、会津地方をもその版図に収め、黒川城を居城とした。
また、この年には須賀川城主の二階堂氏を滅亡させたほか石川昭光や白川義親らを服属させ、浜通りを除く福島・宮城両県と岩手県南部に渡る広大な勢力圏を築き上げた。
天正18年(1590)、羽柴秀吉から小田原征伐の出陣督促を受けた政宗は、秀吉に服属していた蘆名氏を攻めたことを詰問されるという警戒から返答を伸ばしていたが、重臣・片倉景綱に諭され、ついに小田原に参陣することに意を決した。しかし出発の直前、実母である義姫が政宗の毒殺を謀るという事件が起こった。解毒剤を服用して一命は取りとめたものの、この陰謀の原因は弟の小十郎にあるとして、小十郎を斬殺した。
6月に至って小田原征伐に参陣し、秀吉から遅参を責められて箱根底倉に蟄居となるが、同月9日に石垣山で秀吉に謁見を許されたときには、水引で髪を一束に結い、白色の死装束を身に纏うという「死を覚悟した」姿で臨んだと伝わる。これが功を奏してか、直近に版図に収めた会津・岩瀬・安積郡を没収するということで許され、従前の田村・安達・信夫・伊達・刈田・柴田・伊具・亘理・名取・宮城・黒川・宇多・置賜の諸郡については安堵された。
ついで会津から米沢に居城を移し、11月には葛西・大崎一揆の鎮定に出陣。
しかし、この騒乱自体を政宗が陰で策動していたとの噂が流れたため、天正19年(1591)閏1月、尾張国清洲にいた秀吉のもとへ伺候して陳弁に努めた。このときも死装束に身をかため、そのうえで金箔を貼りつめた磔刑柱を行列の先頭に立てて乗り込んでいったという。
九戸政実の乱後の同年9月、伊達・信夫・安達・田村・刈田・置賜を没収される替わりに葛西・大崎氏の旧領である江刺・丹沢・桃生(ものう)・牡鹿以下13郡を与えられ、米沢から玉造郡岩出山に治府を移して58万石余の領主となった。
秀吉の死後間もなく、長女の五郎八(いろは)と松平忠輝の婚約により徳川氏に接近した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では東軍勢力として最上氏・南部氏と軍を合わせて翌年3月まで上杉景勝勢と戦い、戦後にはその功として刈田郡を与えられた。のち近江国・常陸国に2万石の所領を給せられ、合わせて62万石。
慶長6年(1601)に仙台城と城下町の築造に取り掛かり、以後は12年(1607)に塩竈神社・大崎八幡神社・国分寺薬師堂、14年(1609)には松島瑞巖寺を造営、寛永3年(1626)には北上川の改修工事を完成させて仙台藩の米作りと江戸廻米の基礎条件を整えるなど、領内統治と産業開発に努めた。
また、南蛮との通商を企図し、慶長18年(1613)9月には幕府支持のもとに支倉常長 をローマに派遣したが、目的を達しえなかった。
慶長年間末の大坂冬の陣夏の陣にも参陣した。とくに夏の陣においては道明寺の合戦で大坂方の後藤基次薄田兼相隊を破るなどの大功を挙げた。
寛永3年(1626)に従三位権中納言に叙任された。
寛永13年(1636)5月24日に江戸桜田の藩邸で没した。70歳。法号は貞山利公瑞巌寺。