片倉景綱(かたくら・かげつな) 1557〜1615

伊達氏の重臣。出羽国米沢八幡神社の神主・片倉景重の二男。母は、はじめ鬼庭良直に嫁して一女をもうけて離別した本沢真直の女と伝わる。通称は小十郎。備中守。
伊達輝宗の徒小姓となり、天正3年(1575)に輝宗の長男で9歳だった梵天丸(のちの伊達政宗)の近侍となり、先に梵天丸の保育にあたっていた18歳年長の異父姉(鬼庭良直と母の間に生まれた娘)・喜多と共に養育した。
政宗は幼年期に疱瘡を患って右眼を失明しているが、その後に右眼の肉が盛り上がって目尻の外に出てきたので側近にこれを潰すように命じるも、誰もが恐れて手を出せずにいたが、景綱がこれを受けた。また、政宗が脇腹に腫物を患った際にもこれを焼き切るように命じられており、このときは鉄の棒を火鉢で焼き、自分の身体で効果を試したうえで政宗に処置したといい、政宗の成長を通じて深い信頼関係が培われた。
長じた政宗の股肱の臣として家政や外交を司る一方で、天正13年(1585)閏8月の小手森城の戦い、同年11月の陸奥国安達郡人取橋の合戦、天正17年(1589)の耶麻郡摺上原の合戦をはじめとする政宗の主要な戦いのほとんどに従軍し、戦塵に塗れながら武功を重ねた。
出羽国置賜郡の片倉館を居館としたが、二本松氏が開城したのちの天正14年(1586)8月には安達郡二本松城に在番してその統治を任されているが、9月には信夫郡大森城主となって移った。
天正18年(1590)の小田原征伐に際しては、決しかねる政宗を説き伏せて共に秀吉のもとへ伺候、主家を危地から救った。
天正19年(1591)、秀吉による伊達領の再編にともなって亘理郡亘理城主となる。慶長7年(1602)12月には刈田郡白石城を与えられて1万3千石を領し、翌年に入部した。
晩年には中風を患い、元和元年(1615)10月14日に59歳で没した。法名は傑山常英大禅定門。家士6人が殉死したという。
子・重長(別称を重綱)は1万7千余石に加増され、以後、片倉氏は幕末に至るまで白石を守る。
また、この景綱以降の片倉氏当主は代々が小十郎を名乗った。