伊達輝宗(だて・てるむね) 1544〜1585

奥州探題・伊達晴宗の二男。母は岩城重隆の娘。通称は次郎。彦太郎・総次郎とも称す。妻は最上義守の娘・義姫。法号は受心。従四位下・左京大夫。出羽国米沢城主。
弘治元年(1555)、将軍・足利義輝より一字を与えられて輝宗と名乗る。
時期は不詳(永禄5〜6年か)であるが、相馬氏に通じた伊具郡角田城主・田手宗光への対処において父・晴宗との緊張が高まっている。この詳細な理由や経緯は明らかでないが、この父子対立は縁戚の最上義守・蘆名盛氏・岩城重隆らの調停によって収束し、永禄7年(1564)から翌年の間に晴宗より伊達氏の家督を譲られた。
相馬氏と親しかった祖父・稙宗が永禄8年(1565)に没したことにより相馬(弾正大弼)盛胤との関係は悪化の兆しを見せるが、永禄9年(1566)には姉または妹を養女として蘆名盛氏の子・盛興に嫁がせ、永禄10年(1567)3月には弟・政景を留守氏に、永禄11年(1568)には同じく弟の昭光を石川氏に入嗣させるなど、活発な婚姻政策を展開して近隣諸豪との関係を強化している。佐竹義重に妹(晴宗五女)を嫁がせたのも、この頃と思われる。
永禄13年(=元亀元年:1570)4月には強権を揮っていた家老の中野宗時・牧野久仲(宗仲)父子に叛かれたが鎮圧して相馬へ逐い、代わって遠藤基信を家宰とも言うべき地位に登用して家中を統治した。
相馬氏との抗争は天正年間に入っても続けられたが、佐竹・岩城・田村氏らの斡旋で天正12年(1584)の春に伊具郡を伊達領に帰すことで講和を結んだ。
同年10月、嫡男の政宗に家督を譲って小松城に隠居して性山と号したが、翌13年(1585)10月8日、不慮にして二本松城主・二本松義継に拉致される途中、追撃してきた伊達勢の銃撃を受けて義継と共に最期を遂げた。42歳。法名は性山受心覚範寺殿。