陸奥国の戦国大名。伊達稙宗の嫡男。母は蘆名盛高の娘。通称は次郎。妻は岩城重隆の娘。従四位下・左京大夫。奥州探題。号は道祐。出羽国米沢城主。
天文2年(1533)5月、将軍・足利義晴から諱を受けて晴宗と名乗った。
天文11年(1542)6月、かねてよりの懸案となっていた弟・実元を越後守護上杉家への入嗣に反対し(伊達時宗丸入嗣問題)、これを推進する父・稙宗を桑折西山城に幽閉した。この父子相克は家中を二分する内訌に止まらず、奥羽の諸家を巻き込む大乱となった(伊達氏天文の乱、別称を洞の乱)。
この乱は6年間にも及び、天文15年(1546)頃までは劣勢を強いられていたがしだいに戦況を覆し、天文17年(1548)9月に将軍・足利義輝の調停によって終息をみるが、稙宗が家督を晴宗に譲って隠居するという裁定であり、実質的に晴宗の勝利といえる。
乱の終結後は出羽国の米沢に本拠を移し、天文22年(1553)1月には家中に対して『采地下賜録』に集約される知行判物を一斉に再交付した。これは新体制を発足させるにあたり、晴宗自身の意向を反映させた知行再編を行うことで掌握の強化を図ったものとみられ、同年7月には天文の乱において敵対した懸田俊宗・義宗父子を誅殺している。
晴宗が稙宗に叛くに至った直接の契機は実元の上杉氏入嗣問題であったが、その根底は稙宗の布く強固な専制体制を修正することにあったとみられる。この天文の乱を克服したことでその目的は達せられて家臣団との緊張は融和されたが、その反面において伊達宗家の権力は減衰し、後年には破格の恩典を認めた中野宗時・牧野久仲(宗仲)父子の統御に苦しむなどの問題も残すこととなった。
弘治元年(1555)、左京大夫に叙任。その後の永禄年間に奥州探題に補任された。
治世の後期には嫡男・輝宗との対立を深めることとなったが、その経緯は不詳。
永禄7年(1564)12月から翌年4月の間に隠居して輝宗に家督を譲ったとみられ、陸奥国信夫郡杉目に移り、天正5年(1577)12月5日、同地で死去した。59歳。法名は乾徳院殿保山道祐居士。
夫人との間にもうけた11人の子女を岩城・二階堂・留守・石川・蘆名・佐竹・国分などの諸家に入嗣・入嫁させるなど、父と同様の政略結婚によって伊達氏の地位を更に重いものとした。