伊達稙宗の三男。母は蘆名盛高の娘(一説には中条藤資の妹)で、伊達晴宗の弟。幼名は時宗丸。通称は藤五郎。妻は兄・晴宗の娘。従五位下・兵部大夫。棲安斎と号す。陸奥国信夫郡大森城主。
後継者に恵まれなかった外曾祖父(一説には祖母の兄弟)で越後守護の上杉定実から養子に望まれたが、入嗣直前の天文11年(1542)6月、強権を揮う稙宗に反発した晴宗が叛乱を起こしたため、入嗣は履行されなかった(伊達時宗丸入嗣問題)。この父子による内訌は伊達氏天文の乱と呼ばれる大規模なものとなり、この内乱中は稙宗側の指揮官として信夫周辺に在陣している。
天文の乱の終息後は晴宗・輝宗・政宗の3代に亘って仕え、伊達氏当主の補佐にあたった。元亀元年(1570)には輝宗に叛いて相馬へと出奔した中野宗時・牧野久仲父子から輝宗への仲介を依頼されている。
天正2年(1574)、輝宗の命を受けて二本松義継の支城・信夫郡八丁目城を攻め取り、天正4年(1576)の相馬戦に臨んでの起請文には16番に名を連ねる。
天正12年(1584)頃に家督を嫡子・成実に譲り、剃髪して棲安斎と号し、八丁目城に隠居した。
その後も一族の重鎮として存在感を示し、天正13年(1585)には政宗と敵対していた二本松義継の和睦願を、天正14年には相馬義胤の伊達・畠山両家間の和睦要請をそれぞれ政宗に取り次いでいる。
天正15年(1587)4月16日死去。61歳。