相馬義胤(そうま・よしたね) 1548〜1635

相馬氏第16代当主。陸奥国小高城主・相馬盛胤(第15代)の子。初名を誠胤(まさたね)。通称は孫次郎。従五位下・長門守・弾正小弼。
永禄2年(1559)、伊達稙宗の末娘を妻に迎える(一説には永禄3年)。ちなみに、この妻の異母姉は義胤の祖父・相馬顕胤の妻となっている。
しかし伊達氏との関係は悪化して永禄7年(1564)より伊具郡の地を争っており、岳父である稙宗が永禄8年(1565)が没したのちには本格的な抗争が展開されるようになり、天正10年(1582)には二本松・大内氏と合従して伊具金津で伊達輝宗と激戦を交えている。
天正12年(1584)5月には田村清顕の調停で伊達氏との講和が結ばれているが、この講和はほどなく破れ、天正13年(1585)11月の人取橋の合戦では伊達勢と戦った二本松・佐竹・蘆名氏の連合軍に与して参陣。しかし二本松氏が伊達氏に降伏するにあたっては、調停に尽力している。
その後も同郡丸森地方の攻防戦で小身代ながらも武門の意地を示し、伊達輝宗・政宗父子にも屈しなかった。この争いは天正18年(1590)まで続けられた。
同年の小田原征伐に従って羽柴秀吉に謁見、12月には陸奥国宇多・行方・標葉(しては)の3郡より4万8千7百余石を安堵された。
はじめ行方郡の小高城に拠っていたが、慶長3年(1598)に牛越城に移った。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では、当初兵を動かさず、勝敗の大勢が決したのちに上杉領である安達郡を攻めようとしたが失敗。戦後処置として慶長7年(1602)5月、観望反覆の咎で所領を没収されて陸奥国田村郡三春に閉居したが、嫡子・利胤の奔走や伊達政宗のとりなしで同年10月に至って利胤に旧領が与えられた。
慶長16年(1611)12月、陸奥国宇多郡中村城に移る。
慶長20年(=元和元年:1615)の大坂夏の陣に際しては、病身の利胤に代わって従軍した。また、寛永2年(1625)に利胤が没したため、嫡孫・虎之助(のちに義胤を襲名)を後見する。寛永12年(1635)11月16日、中村城にて没した。享年88。法号は外天雲公蒼霄院。